プレセンディア・ハンティントン・(ブエル・スミス・キンボール)
ジョセフ・スミスの6番目の妻
プレセンディア・ハンティントン・(ブエル・スミス・キンボール)
生い立ち
ジョセフの5番目の妻、ジーナの姉
16歳でノーマンと結婚。
その後、モルモン教会に改宗、しかし夫は教会をやめる。でも、常に彼女を支えてきた。彼との間に6人子供をもうけるが、ジョージとオリバーの2人だけが生きた。
31歳の時、ジョセフ・スミスと結婚。ジョセフの死後はヒーバー・C・キンボールと結婚。だが、ノーマンと夫婦として住み続けた。
ノーマンがユタへ行かないので末っ子オリバーを連れて家出をし、一方的に離婚する。この時代、女性信者が他の女性や男性を祝福することがよくあった。プレセンディアもそのようなことをした。ある時、ハヴィという男性の頭に手を置いて、「イエス・キリストの名前によって言う、あなたは昇栄すると。」と言った。
ヒーバーとの間に2人の子供を産んだ。1人は川でおぼれて死んだ。
しかし、ヒーバーが一番愛していたのは最初の妻、ヴァイレットだったので、あまり良くしてもらえなかった。
たて続けに子供を失う
●1810年9月7日生まれ。10人兄弟の4番目
●1827年1月6日、16歳の時、ノーマン・ブエル(22歳)と結婚。
1829年12月12日、長男ジョージが生まれる。
夫ノーマンは、プレセンディアの為に工場を売って農場を買った。プレセンディアは農場育ちで、その方が彼女は幸せだったから。
●1831年12月25日、次男サイラスが生まれた。しかし、2年後、サイダーを大きな容器に入れて沸騰させておいたら、そこへサイラスが落ちて、13時間後にただれ死んだ。
●この時妊娠していたが、この事故のトラウマで体調を崩し、次の子トーマスを出産したものの、生まれてすぐトーマスは死んだ。
●ノーマンは農場を売り、毛糸工場を始めた。妻が農場を見ると子供たちの死を思い出すから。
●妹のジーナからモルモン教会を紹介され、入信。「知恵の言葉」に同感した。
健康になりたいと望み、入った。
●3番目の赤ちゃんチョーンシーも生後1か月で死亡。
霊多岐な経験
●白い服を着た天使たちが神殿の屋根を歩いているのを見た。
●証会の最中、天使たちが歌っているのを聞いた。
●妹のジーナと同じで、異言を語った。
カートランドを去り、ミズーリへ
●1838年、みんなでミズーリへ。4月24日に4番目の子供、アデリーンという娘が生まれたが、生後4時間で死んでしまった。
●夫ノーマンがモルモン教会に反対した。プレセンディアの弟オリバーによると、
ノーマンは暴徒からの迫害を恐れており、経済的に安定した生活を望んでいて、又、教会の指導者たちに不満があったという。ノーマンは妻のプレセンディアに一緒に教会をやめるようにと勧めたが、彼女はこれを拒んだ。
●1839年、ノーマンは教会を去った。プレセンディアは、こう書いている。
「私の夫は苦々しい背教者となってしまった。彼は、私が彼の前で教会のことを良く言うのを許さなかった。」
●1839年2月、プレセンディアは食事を持って他の兄弟たちと一緒に、リバティーの牢獄にいるジョセフ・スミスに会いに行った。
●ほとんどのモルモンはミズーリを出てイリノイへ行ったが、ノーマンたちは残っていた。
ノーマンの仕事は順調で、家族は安定した日々、を送っていた為、ノーマンはイリノイへ行って仕事や生活が保証されるのかどうかを心配していた。
しかし、妹ジーナへの手紙の中で、プレセンディアは「そんなことどうでもいい、神の御心を行う方が大切だ」、と言っている。
●結局ブエル家はイリノイへ引っ越した、モルモンの近くに。
●1841年ジョセフ・スミスはプレセンディアの妹のジーナと結婚した。
ジョセフ・スミスのとの結婚
●1841年12月11日、プレセンディアはジョセフと結婚。
「私は一切、この多妻婚に異議を申し立てない。この教えに敬意を表します」
と、妹のジーナと違ってジョセフの妻になることを拒否しなかった。
結婚式は兄のディミックが執り行い、彼の妻、ファニーが証人として出席した。
弟のオリバー・ハンティントンはこう書いている。
「ディミックがジョセフに妹のジーナとプレセンディアを永遠の妻として捧げた。
その後、ジョセフはディミックに どんな報酬でも与えよう、と言った。
ディミックはただ、こう頼んだという。
「あなたとあなたの父たちの家族がいる所に私と私の父たちとその家族も
共に住めますように」
●この式には夫ノーマンの姿はない。恐らく、ノーマンはこの結婚について知らなかったと思われる、しかし、ノーマンとプレセンディアは夫婦として住み続けた。
●1843年11月、4番目の子、ノーマンとの間に生まれた最後の子、ジョンが生まれる。しかし、ジョンは1歳で病死する。
(しかし、この“ジョン“ はジョセフ・スミスの子かもしれない。恐らく
違うだろう、しかし、その可能性が全くないとは言えない)
●1844年6月27日 ジョセフ・スミスが死亡。
●1845年3月17日以降、ヒーバー・C・キンボールと結婚、彼の21番目の妻として。これをノーマンは知らなかったのは明らかだ。
●その後もプレセンディアはノーマンと住み続け、一緒に教会に集っている。
家出
●1846年5月、モルモン教徒はユタへと旅立った。
しかし、夫ノーマンは行こうとしない。プレセンディアは16歳の息子を残し、
6歳のオリバーを連れて家を出た。森に隠れ、最後はモルモン信者の親せきと合流してユタへ。
ノーマンは気が狂ったように2人を探すが見つからなかった。
ヒーバーの妻として
●この頃、ヒーバー・C・キンボールは既に39人もの妻がいた。
--ヒーバーは死ぬまでに45人の妻をめとった。
--が、16人が彼から離れて行った。
--ヒーバーは最初の妻、ヴァイレットを誰よりも愛していた。
●夫ヒーバーからあまり援助を受けられなかったので、学校の先生として働いた。
●他のヒーバーの妻たちとブレッシング・ミーティングなどを開いて交流を深めた。
●この頃のモルモンたちは、病気は悪い霊が引き起こした災いだと思っていた。
「私は、悪霊に苦しめられ、息が出来なくなった5人の姉妹の上に手を置き、イエスの名によって破壊者をしかりつけた。」とプレセンディアは書いている。
●1848年 ノーマンはウィンタークォーターへ来て、プレセンディアに、戻ってきてほしいと頼みに来たが、断られる。そこでノーマンはあまり彼女から遠くない場所に住んで製粉工場を営んだ。
ユタでの生活と娘の死
●兄ディミックがジーナとプレセンディアの為に家を買ってくれた。
パティ・セッションズやジーナと病気の人を見まったり、ブレッシング・ミーティングを行ったりした。
●1849年1月9日、ヒーバーとの間に女の子が生まれ、プレセンディアと名付けるが、1年後に川でおぼれ死ぬ。プレセンディアはショックで病気になり、死にそうになる。が、ここで夢を見る。プレセンディアの父親とジョセフが部屋に入ってきて、初めは彼らが自分を迎えにきたかと思ったが、息子のオリバーの為に行きなければ、と思った。
●1851年12月22日、ヒーバーの2番目の子を出産した。プレセンディア
41歳のことであった。子供はジョセフと名付けられた。
●ヒーバーは1つの家に3,4人の妻たちを一緒に住まわせ、土地を売ったり買ったりする度に引っ越しをさせた。しかし、ヴァイレットだけはいつも自分と一緒に、白い素晴らしい家に住まわせた。
●プレセンディアは家のことなどを夫ヒーバーではなく、近所の男性に手伝ってもらっていた。
●息子オリバーは自分の妻と一緒に、セント・ルイスにいる兄のジョージの所へ引っ越した。彼の妻はモルモンへの信仰を失くしていたからである。オリバーはジョージの経営する工場で働くことになった。これにプレセンディアは大変悲しんだ。
●プレセンディアはヒーバーの命令で22回も引っ越しをした。最後は、「もう引っ越ししません」と言ってのけ、その望みはかなえられた。
●1868年6月22日、ヒーバー死亡。
●プレセンディアの家のドアに女の赤ん坊がおかれており、これをジョセフィンと名付けて育てたが、死んでしまった。しかし、息子ジョセフは大人に成長し、結婚した。ところが、息子オリバーはガンを患い、死亡。
●神殿の奉仕をひんぱんに行った。
●1876年10月26日、プレセンディアとジョセフ・F・スミスは神殿で、死者の為の身代わりの結婚の儀式をした。
プレセンディアの死んだ息子オリバーを、既に亡くなっていた6人の女性たちと夫婦として結び固めたのだ。こうして、オリバーは死後、一夫多妻を行ったことになる。
●妹ジーナと一緒にプライマリーや若い女性の集会へ赴き、よくスピーチをした。
多妻婚を擁護するスピーチもした。
1878年、11月16日、ユタで開かれた、多妻婚を擁護する女性の大会で、やはり、多妻婚を擁護する祈りをささげた。
●1893年2月1日、死亡。
私の感想
妹のジーナ以上に、モルモンリーダーたちに従順な人だったんですね。ノーマンは良い夫だと思います。彼女の為に仕事を変えたし、経済的にも安定した道を提供しようと頑張りました。
ジョセフ・スミスは銀行を建て、多くの信者に投資を勧めたけど、経営に失敗、倒産して、多くの人が全財産を失いました。プレセンディアの父もその一人で、家族は飢えに苦しんだそうです。ジョセフが牢屋にいたのも、財産を失って困った人たちから訴えられた為なんです。だから、ノーマンがモルモンリーダーたちを信用しなくなったのも無理はないと思います。
彼といたら、愛されて、たとえ次々と子供たちを亡くしたとしても、もっと幸せな人生をおくったのになーと思います。
ヒーバーは最初の妻バイレットを誰よりも愛しており、プレセンディアもそれをよくわかっていたに違いないからです。ジーナと同様、プレセンディアは、教会の為に、一番大切なものである「誰よりも自分を愛してくれる夫との生活」を捨てた、不幸な女性だったと思わざるを得ません。
0コメント