ジョセフ・スミスの建てた銀行はなぜ倒産したか?

The Kirtland Safety Society Anti-Banking Company. (カートランド安全協会アンチ銀行会社) カートランドでジョセフ・スミスの建てた銀行。 だが、倒産した。結果、多くの信者や非モルモンがすべてを失った。 ジョセフ・スミスの5番目の妻、ジーナ・ハンティントンの父親もその一人。 ジーナの父ウィリアムは裕福な農場の持ち主でであったが、常に貧しい人々に施しをしていた。彼はカートランドの「アンチ銀行」にほとんどの財産を投資し、1837年の秋、自分の土地を失くしてしまった。 これについてジーナの弟オリバーは皮肉を込めてこう書き残している。  「銀行が倒産して僕らは一文無しになった、他のモルモンと同じように。いずれは貧乏になるだろうとは思っていた。だが、こんなにあっけなくとは!」 父ウィリアムは労働者として働かなければならなくなった。家族はほとんど食べるものがなくなり、飢えに苦しんだ。 (Todd COmpton トッド・コンプトンという現役モルモン歴史家の著書 In Sacred Loneliness 「聖なる孤独の中にあって」から引用 ) モルモン教会側の見解 ●カートランドでは、ジョセフ・スミスと他の教会指導者たちが銀行を建てると決め法的支援を受け、銀行をつくるための同意書が書かれた。これをカートランド安全協会と名付けた。 1836年11月、オルソン・ハイドがオハイオ州の首都コロンブスへ請願書を持って行った。議会で承認を得る為である。 同時に、オリバー・カウドリはフィラデルフィアへ向かった。紙幣を印刷する為に使う版を購入する為である。 オリバーは版を買って来たが、オルソンは残念な知らせを持って帰って来た。請願書を出すタイミングが悪かったのだ。議会は請願書の内容について聞いた後、この銀行への許可を与えることに異議を唱えた。 オハイオ州の銀行の拡大に反対していた「ハード・マネー派(現ナマ派、現金派)」の民主党員が議会の主権を握っており、彼らはほとんど全ての新しい銀行への許可を拒んでいたのである。 ●許可が下りなかったが、The Kirtland Safety Society Anti-Banking Company. (カートランド安全協会アンチ銀行会社)という合資会社をつくった。許可無しで運営していた銀行もオハイオ州にはあったので、モルモンリーダーたちは、自分たちも銀行業を営む民間会社を組織する法律にかなった権利があると思ったのだろう。 多くの信者と非モルモンがこの銀行を始めることに賛成していた。ジョセフが現金出納係でシドニー・リグドンが頭取で、1837年1月2日に開業した。 銀行が破たんした理由について、モルモン教会はこう説明している。 ●「多くの他の銀行が安全協会の銀行券を法にかなった通貨として受け入れることを拒んだ。そして反モルモン新聞が安全協会の紙幣は価値が無い、と烙印を押した。 更に、協会の資金は主に土地だったーー要するに、ハードカーレンシーと呼ばれる金や銀は手元にあまりなかったのである。紙の紙幣を換金する多額な要求には応えられなかった。 ●モルモン教会の敵対者たちは、取り付け(預金を受け入れている金融機関の窓口に預金者が預金引出しを求めて一時に殺到する状態)を引き起こすために充分な額の銀行券を手に入れたこうして協会が、その初めの銀行券を発行してから2,3週間後に金・銀・銅貨での支払いを一時停止せざるを得ないように仕向けたのである。 許可証を所持していなかったことも、会社の信用を妨げた。 結果、ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンはオハイオ州の銀行法に違反した罪で 起訴され、裁判を受けることとなったのである。 ●1837年の春、聖徒たちの経済的問題は恐慌(後に1837年恐慌と呼ばれるもので、ニューヨークから国中の各地へと広がった)と融合した。 5月までには、オハイオ州全ての銀行で全面的な金・銀・銅貨での支払いの一時停止が行われた。 ●ジョセフ・スミスは投資家たちに銀行を支える為にもっと資金を出すように説得しようと全力を尽くした。しかし、最終的には他の役員に経営を任せることとなった。 しかし、これが仇となった。なぜなら、不適切な運営が行われ、数人の役員が横領をはたらいたといううわさが流れたからである。 ●銀行から借りた 仮の現金 が手に入ることにより、多くの人が借金までして土地を買った。転売して利益を出す為である。 「The Messenger and Advocate(メッセンジャーと提唱者)」という当時毎月出版されていたモルモン新聞の中で、ウォーレン・カウドリーは、こう主張している。 ーーモルモン信者の中には「無謀な投機(不確実だが当たれば利益の大きい事をねらってする行為)と富への非現実的な夢を抱いた罪に当たる」人々がいた、と。 「彼らはまるで銀や銀が彼らの神であり、家、農場、商品が祝福であるかのように考えていた」ーー ●カートランド安全協会がその事業を広め過ぎた為、遂に1837年11月に閉店に追い込まれた。200人の人が銀行に投資したすべてを失った。 ジョセフ・スミスの損失は他のどの人よりも大きかった。 銀行で成功を収めようとしたと同時にカートランドで土地と彼の店の商品を購買しようとしたが、10万ドルの借金を抱えてしまったのである。 借金を上回る土地と財産はあった。だが、をの資産を債権者たちに換金して払うことがすぐには出来なかった。 予言者ジョセフは1837年、Geauga County(Geauga郡)において17回にわたる裁判に耐えた。30000ドル以上もの借金返済要求を受けた。 ●運の悪いことに、ほとんどの人が自分たちの経済困難がどのように引き起こされたのかを正しく理解していなかった。 多くのモルモン信者が予言者ジョセフに反対し、全ての問題の責任は彼にある、と非難したのである。 上記の文章は、教会の公式なサイトに出ています。 Chapter Fourteen: The Apostasy in Kirtland, 1836?38 Church History In The Fulness Of Times Student Manual, (2003), 169?180 次に、モルモン教会の公式なサイトではないサイトからの見解を挙げます。 ●以下は、「Mormonism - Shadow or Reality? page 531:モルモニズムー影か現実実か?531ページ」からの抜粋である。 ウォレン・パリッシュはジョセフの銀行の役員だった。彼は後に、モルモン教会から背教する。彼がこの様に言っている。 「私は、、、ジョセフがこう宣言するのを聞いた、神の声が、銀行ーアンチバンキング金融機関を建てるように指示したと。この金融機関は、アロンの杖の様に、他の全ての銀行を飲み込み、成長し、栄え、世界の果てまで広がるだろう、そして他の全ての銀行が倒産しても、生き残るだろう、と。」 (Painesville Republican, February 22, 1838, as quoted in Conflict at Kirtland, page 297) ●ウィルフォード・ウッドラフは1837年1月6日、日記にこう書いている。  「私も又、大管長ジョセフ・スミス・Jrが、供託所で、F・ウィリアムズとD ホイットマーとS・スミスとウォーレン・パリッシュとその他の人たちの前で、 あの日の朝Kirtland Safety Society(カートランド 安全協会)について、主の言葉を聞いたと言ったのを聞いた。ジョセフは一人で部屋にいた時、霊の声だけでなく、実際に声を聴いたのだ。」 (ウィルフォード・ウッドラフの日記1837年1月6日 カートランドでの闘争 で引用された 296ページ) ●Mormon Enigma(モルモンの謎)pp62 にはこう書いてある。 神殿の建設によって、一時はカートランドの経済は活性した。しかし、奉献式の後、貧しい改宗者がどっとなだれ込み、経済は低下した。古くからの居住者らは、新しい居住者が入って来ないように経済的圧力をかけたが、モルモンの人口は20倍にも跳ね上がった。これに対して、土地所有は4倍にしかならなかった。 1836年11月、ジョセフと他のリーダーたちは、銀行を建てる為の条項を作成した。投資の為の資金を供給するのが目的である。これは死に者狂いのかけだった。 オリバー・カウドリは紙幣を印刷する為の版を調達する為にフィラデルフィアへ行った。 オルソン・ハイドはコロンブスの議会へ赴き、銀行のライセンスを得る為に請願書を持って行った。これは却下された。  オリバーはカートランド安全協会の為に版を買って来たが、ハイドは許可なしで戻った。  買って来た版に多額の金を費やしたので、とにかく何かを印刷しよう、ということになり、  「バンク(bank)」の前に 「アンチ(anti)」、最後に「ing(イング)」 と書いた。銀行券には、  「Kirtland Safety Society Anti-Banking Company,」と書かれた。 銀行券は、法で認められた紙幣として合資会社から配られた。 初めはお金がどんどん流通した。モルモンよりも金融に詳しい商人とビジネスマンたちが紙幣を換金し始めると、ジョセフはこれでは銀行が破滅すると気づいた。 ジョセフとシドニー・リグドンが銀行の取り締まり役を辞任してから1か月後、銀行は倒産した。これにより、ジョセフの地位は危ぶまれることとなった。 ジョセフが初めから詐欺を働くつもりだった、と確信した人たちは、彼に暴言を吐き暴力をもっても脅した。こうして、ジョセフはしばしばカートランドから逃げることになったのである。  1837年4月、ジョセフはエマに会うことなく、隠れ家へと逃げた。 ●1837年6月8日と7月7日の間にジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは銀行の役員を辞任し、フレデリック・G・ウィリアムとウォーレン・パリッシュが代わりに役員に選ばれた。 ●フォーン・ブローディ(Fawn Brodie)が彼女の本((No Man Knows My History, page 198)) にて、Kirtland Safety Society Anti-Banking Companyの崩壊の模様を詳しく書いている。 「もしこの銀行が、その成功を信じる人たちの中でほんの少しでも残っていた名声を打ち砕かれるとどめの一発を食らったとしたら、それはウォーレン・パリッシュが現金出納係を辞任し、教会を去り、予言者ジョセフが行った銀行の運営方法を公に説明し始めた、その時だった。」 パリッシュは後に、25000ドルを持って逃亡した罪で訴えられた。 しかし、もしウォーレンが本当にこの額の金を盗んだとしても、その金は  「価値の無い銀行券」だったに違いない。 なぜかというと、それだけの額の紙幣が金庫にあったならば、少なくともジョセフが現金出納係だった時に銀行を救えていたはずだからである。 No Man Knows My History, pp. 199-202)によると、以下の通りである。 債権者たちは脅しと支払命令書を持ってジョセフの下へ雪崩れ込んだ。彼はひどい夫妻を抱えた。彼と彼の長老たちが一体、いくら借りていたのか知るすべはない。 忠実なモルモン信者たちは記録を残していなかったからである。 しかし、非モルモン債権者たちは一連の訴えを起こし、それはGeauga county court(Geauga群の法廷)に正式に記録されている。 「1837年6月と1839年4月までに13の訴訟が予言者ジョセフにつきつけられた。総額25000ドルの額を彼に支払わせる為である。損害賠償は35000ドル程にもなった。 ジョセフは4か月の間に7回逮捕され、彼を支持する信者たちは勇敢にも、彼を釈放させる為に38428ドルを集めた。 13の訴訟のうち、25000ドルのうち、12000ドル分、6件しか法廷では解決できなかった。 ●銀行が倒産した後、数人の銀行役員(全員がモルモン信者だった)が証言している。 「スミスとリグドンは金庫室の中にガラクタを詰めた箱を置いていた。その一番上に銀貨を何枚かの薄い層にしてかぶせ、銀行の資産だと見せかけていた。」 12使徒の半数とモルモン信者の半数以上がカートランド銀行の失敗によって教会を去った。 ●この問題の最中に、スミスは5週間に及ぶ伝道へ出かけた。カナダへである。 戻ってから、モルモン信者の半数が、ある若い女性に従っているのを目の当たりにする。彼女は、自分が女予言者であり、黒い石を使って将来が見えると主張した。 デビッド・ホイットマー、マーティン・ハリス、オリバー・カウドリは彼女に忠誠を誓い、F.G.ウィリアムス(ジョセフの第一副管長)は彼女の書記になっていた。 (No Man Knows My History, p. 205.) ●「The Messenger and Advocate(メッセンジャーと提唱者)」という当時毎月出版されていたモルモン新聞にはこう書いてあった。 「海外の兄弟たちに勧めたい、私たちの安全協会の株を購入することを。イザヤの言葉を思い出してもらいたい。『海沿いの国々は私を待ち望み、タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、また彼らの金銀を共に載せて来て、あなたの神、主の名にささげる』(イザヤ書60章9節から引用)」reprinted in History of the Church, Vol. 2, p. 473) ●教会を去った数人の信者が言うには、金庫室にはたくさんの箱が並べてあり、それぞれに1000ドルと書かれていた。これらの箱は実際は砂、鉛、古い鉄、石、可燃物が詰められていた。しかし、どれも一番上はキラキラ光る50セント銀貨の層がかぶせてあった。銀行の安全性を疑う者は、誰でもこれらの箱を持ち上げたり、数えたりすることを許された。C・G・ウェブによると、 「これらの箱の効果は魔法の様だった。銀行役員たちは銀行は大丈夫だという信頼を築き上げ、あの美しい紙幣は飛ぶように売れた。(the paper money went like hot cakes)一月の間、この辺りでは一番のお金とみなされた。」 (Interview by W. Wyl. See Mormon Portraits, p. 36; also Oliver Olney: Absurdities of Mormonism Portrayed, p. 4; the letter of Cyrus Smalling in E. G. Lee, The Mormons, or Knavery Exposed, p. 14; and Fawn Brodie, No Man Knows My History, pp. 194-8). ●1838年に、ジョセフの秘書で銀行の現金出納係を短期間務めたウィリアム・パリッシュはこう書いている。 「ジョセフがこう宣言するのを聞いて私は驚きを隠せなかった。彼は、我々の金庫室には60000ドルもの金銀銅貨があり、自由に使える金が600000ドルあると言ったからだ。しかし実際はあの時持っていた金はは6000ドル以下で、それ以上は自由に使うことなど出来なかった。又、10000ドルが市場に出回っていて、彼が現金出納係であった時、少なくとも150000ドルはあったことを彼は知っていた。」 (Letter to Zion's Watchman, published March 24, 1838. サイラス・スモ-リングも又、ジョセフは硬貨で6000ドルしか集めることが出来なかったと書いている。 E. G. Lee, The Mormons, or Knavery Exposed, p. 14) 「モルモン 又は不正行為が暴かれる14ページ参照」 パリッシュは銀行の失敗の後で教会を去り、ジョセフの銀行運営のやり方について公に語り始めた。パリッシュは後に25000ドルに当たる銀行券を持って逃亡した罪に問われが、恐らく最後はこの銀行券は全く価値のないものになっただろう。 1月27日、銀行が開業してから一か月も経たないうちに、ペインズビルのテレグラムはジョセフが「店を閉め、土地以外では1ドルも換金しないと言った」と報告した。これで銀行券を持っている者たちはえらいことになったと知り、必死にこれを売ろうとした。 (According to Cyrus Smalling. See E. G. Lee, The Mormons, or Knavery Exposed, p. 14. Also William Harris: Mormonism Portrayed (Warsaw, Illinois, 1841), p. 30) 初めから、この銀行は法律の下で建てられてはいなかった為、ジョセフは裁判所から裁判の費用だけでなく、罰金1000ドルも払うように命じられた。 (see Chardon, Ohio, courthouse, Vol. U, p. 362). 言うまでもなく、ジョセフを信頼していた信者たちは彼に幻滅した。詐欺で告訴されたジョセフは、この件に関して訴えを起こした者たちをことごとく破門すると脅した。 公平な立場をとると、他の多くの銀行も1837年の恐慌で倒産した。そして、背教しようとしていた信者たちも、ジョセフの投機は窃盗というよりは軽率だったと思うことに決めた。 クリストファー・キャリーは言った、 「盗まれ、しえたげられ、コケにされたと知っていても、彼らが予言者への信仰を持ち続けたのは驚嘆に値する。」 (Pioneer and Personal Reminiscences, p. 45) しかし、銀行の資金について不誠実であったこと、投資をしたら祝福されるという約束の予言、初めからジョセフが法律にかなっていない銀行をつくるように信者に許可を与えてその操業を行ったのは紛れもない事実だ。 Most Mormons Know A Little About The Kirtland Bank Tuesday, May 9, 2006,から引用 MORMON CURTAIN(モルモンカーテン) Containing 5,717 Articles Spanning 332 Topics Ex-Mormon News, Stories And Recovery Online Since January 1, 2005 私の意見 教会の公の見解とそうでない見解には大きな違いがあります。 ①銀行を建てたきっかけ 教会ーージョセフを含む指導者たちみんなで銀行を建てると決めた。 その他ー神が直接ジョセフに語りかけ、銀行を建てるようにと命じられた。 ②銀行が破たんした理由 教会ーー●オハイオ州の議会が許可をくれなかったから。    ●反モルモンが新聞やあの手この手を使って嫌がらせをしたから。    ●モルモン信者たちが欲に目がくらみ、無謀な投機をしたから。    ●ジョセフの後を引き継いだ者たちが不適切な運営を行ったり、横領を行っ     たりしたから。     ●国中に広まった恐慌の影響を受けたから。 その他ー●ジョセフが資金が充分あるように見せかけ、投資する人々からお金を巻き     上げ、挙句の果てには下手な操業で経営を失敗したから。     ●教会の新聞などでこの銀行は成功するから投資してくれと信者たちに大々     的に宣伝した。根拠のない予言的な約束をし、多くの人を巻き込んだ。  ウォーレン・パリッシュの言ったことはあてにならないという人もいるけど、ウィルフォード・ウッドラフもパリッシュと同じことをジョセフが言うのを聞いたと日記に書いています。 又、もし、パリッシュが泥棒だったとしても、教会を去ったとしても、悪者がいつもウソを言っているとは限りません。彼は銀行スキャンダルのど真ん中にいた人だから内部のことを知っていたのは確かでしょう。 今回調べて、いろんな人がジョセフの不正なやり方を証言しているのだとわかりました。ま、でも、ジョセフは妻のエマに内緒で多くの女性と関係を持ち、エマを散々苦しめたのですから、信者に迷惑かけても何も感じなかったのかもしれません。 10年ほど前、私はニューヨークのモルモンの教会に集っていました。聖餐会で、ある兄弟が、「ジョセフも人間だ、間違いは犯す。彼が銀行を破たんさせたのを攻める人がいるけど、それはおど違いだ」と言ってました。 このように、彼がへまをやった、と言っている人もいるわけです。 どうして一言、教会は、ジョセフは間違いを犯した、彼の代わりに謝ります、と、 言えないのでしょう? カートランドの銀行を始めたのはジョセフ・スミスであることは間違いありません。 それも、本当に許可なしでやっちゃったんですね!これにはあきれます。他の銀行たちがそうしていたから、自分もやった?そんな言い訳、通用すると思いますか? そんでもって、教会側の言い訳がすごい!ジョセフは多くの裁判に耐えただと!? この大変なさなかに、カナダへ伝道とかなんとか言って、逃げちゃったじゃないですか!どういう神経してるんだ? 途中で銀行を他の信者に託したら、それが仇でつぶれた?ジョセフがどんなにへまをやっても、全て周りの人の責任、というわけですか? もし、モンソン大管長が、今、これやったら、一体どうなると思います? ジョセフも筋金入りの悪人だけど、そのジョセフをこのようにかばう教会の神経に私は背筋が凍りそうになります。 信者がどれだけ辛い思いをしたか、彼らはただの巻き添えを食っただけってことですか? エマは?ジョセフはカナダへ逃げたけど、エマは子供もいて逃げられない。 ひどい話を聞いたことがあります。彼女は、暴徒たちに何度もレイプされたと。 でも、夫ジョセフがこれだけ人に迷惑をかけたら、腹いせに妻に八つ当たりする人もいるかもしれません。本当にかわいそうなエマ。この後、ジョセフは何人もの女性と関係を持つんですよ!10代の女性を含めて、それもエマが家に住まわせて、我が子のようにかわいがっていた若い女性たちと、ジョセフは寝るんですよ!彼女たちはほとんどがジョセフのプロポーズを初めは断ります。でも、ジョセフは僕と結婚しないと君たちは天国に行けないとか、僕は天使に切り殺されるとか言って、半ば強制的に彼女たちを自分の妻にするのです。それも、エマに内緒で、です!!!皆さんは、こんなこと、耐えられますか? それなのに、よくもしゃあしゃあと、倒産したのは敵対者のせいだとか、議会のせいだとか、信者が無謀な投機をしたからだ、とか言えるな、何て無責任なんだ!と、教会側の言い訳にはほんと、開いた口がふさがりません。大体、カートランド安全協会 っていう名前だったらしいけど、これのどこが「安全」なんだ?!危険極まりないでしょう!! もしかしたら、ジョセフの銀行券をたくさん買って、すべてを失くして、それで2歳の娘が飢えて栄養失調になり、病気になり、死んだという人がいたかもしれません。 もしモルモン信者がこれを読んでいたら考えてほしいのです。上記のような言い訳を平気でするモルモン教会が本当に良い教会なのかどうか。自分の頭で。 

モルモン教会に裏切られて Betrayed By Mormon Church

モルモン教会でのエピソード、事実を調べ翻訳し、書いています。モルモン教会の教えによって苦しんでいる人を救う目的です。 I am writing about my experiences at the Mormon church. I want to help people who are suffering from Mormon teachings.

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