アグネス・モウルトン・クールバース(スミス スミス スミス ピケット)

アグネス・モウルトン・クールバース(スミス スミス スミス ピケット) ジョセフ・スミスの7番目の妻 ●ジョセフ・スミスの弟、ドン・カルロスの妻 ●カルロスとの間に3人の子供を産んだ。一人は幼くして死亡。カルロスも25歳で病死した。娘を一人病気で亡くした。  生きていた間、ドン・カルロスは一夫多妻に猛反対した。 ●ユタへ行かなかった。金堀を目指す4番目の夫とカリフォルニアへ行った。  モルモン教会を離れた。 ●娘のジョセフィン(あだなはアイナ)は有名な詩人となった。 生い立ち ●1808年7月9日生まれ。父 ジョセフ・クールバース 母 メリー ●8人兄弟の3番目 ●1832年7月30日、23歳でバプテスマを受けた。 ジョセフ・スミスの弟、ドン・カルロスとの結婚 ●1835年7月30日、27歳で、19歳のドン・カルロスと結婚。カルロスはジョセフ・スミスの弟だった。 ●妊娠中にも夫は次々と伝道へ行った。 ●みんなで幌馬車でミズーリへ向かったが、金は足りず、寒くて最悪な状態だった。 ●しかし、カートランドを出てミズーリに来ても、結局、もっとひどい状況に陥ったのだった。 ●夫が伝道で留守の間、ミズーリの人たちに家を追い出された。 ●ノーブーでカルロスは初めの「Times and Seasons」というモルモン教会の新聞を編集し、印刷した。それが彼の仕事だった。彼は12使徒高騰評議員の会長であり、市議会議員でもあった。 ●1841年、ジョセフ・スミスはルイーザ・ビーマンと結婚した。 一夫多妻に猛反対した、夫カルロス ●夫ドン・カルロスは一夫多妻に猛反対だった。  「誰でも SPIRITUAL WIFERY(霊的な妻) について教えたり、それを実行する者は、地獄へ落ちるだろう。それが兄のジョセフだったとしても、だ」 とカルロスが言った、と ロビンソン氏が証言している。 ●ロビンソン氏は又、 「カルロスは 私が会った人の中で、最も完全な人間の一人である」と書いている。 「しかし、彼は『霊的な妻』の原則には、苦にがしいほどの反対者だった。」 ●カルロスの娘「アイナ」も同じように言っている。アイナによると、 カルロスはジョセフの多妻婚に抗議して、イリノイを去る計画を立てていたという。 「父は密かにカートランドへ戻る計画を立てていた。もし病気で死ななかったらそうしていただろう。」 ●これに反する記述もある。1918年、ジョセフ・F・スミスはいとこのアイナに手紙を書き、カルロスが多妻婚に反対したというアイナの意見に猛烈に異議を唱えている。 ジョセフの兄、ハイラムも初めは多妻婚に反対だったが後にこれに改宗したので、カルロスも同じように改宗した可能性はある。しかし、実際のところはわからない。 夫カルロスの死とジョセフとの結婚 ●1841年8月7日、夫ドン・カルロスは25歳という若さで病死した。3人の子供を残して。勤務していた印刷所の湿気が原因で病気になったと思われる。 ●1842年3月24日の前にジョセフとアグネスは結婚した。ブリガム・ヤングの記述に、暗号で書かれたものがあり、これが二人の結婚を示していると思われる。 ●ウィリアム・スミスの妻の一人、マリアン・シェッフィールドはノーブーでアグネスと一緒に住んでいた。マリアンは、1893年のTemple Lot Case(RLDS教会とChurch of Christ Temple Lot教会がミズーリのとある小さな土地の一画をめぐって裁判で争ったケース。LDS教会はこの裁判でジョセフの数人の妻たちを証言として送っている。)でアグネスが自分はジョセフの妻だとマリアンに話した、と証言している。 ●夫カルロスが死んでからは縫物をして生計を立てた。帽子とドレスを作った。 扶助協会の会長エマと多妻婚のことで衝突する ●扶助協会の会長、エマ・スミスは扶助協会を使って、一夫多妻のうわさを鎮圧しようとした。  -エマはアグネスがジョセフと結婚したとうわさで知ったのは明らかだ。  ー1842年3月24日、扶助協会の集会でエマは報告した。  「クラリッサ・マーベルが予言者ジョセフ・スミスについて嘘のスキャンダルを流した罪に問われている」 そして 扶助協会の姉妹たちに頼んだ。 「知恵をもって、クラリッサに悔い改めを促すような計画を練るように」と。 ●アグネスは、友達だったクラリッサの為に次のようにエマに抗議した。 「クラリッサは私と1年ほど一緒に住んでいますが、彼女に悪いところなどありません。」 ●にも関わらず、ハナ・マーカム(Markham)がクラリッサを面接する任につかされた。 ●恐らく、エマはこの時、まだ 夫の多妻婚のうわさを信じていなかったのだろう。 ジョセフはノーブーでは9人の妻しかいなかったし、この中の2,3人しかエマは知らなかったと思われるからだ。 ●ハナ・マーカム姉妹とビリングス姉妹がクラリッサを面接し、クラリッサの無罪を  確定した。    そこでエマの第2副会長、サラ・クリーブランドが -エリザベス・ダーフィーとエリザベス・オールレッドがクラリッサを非難した人たち(ローラ・ジョーンズとハナ・バーゲス)を取り調べるべきだ、とした。 ●しかし、この時すでにクリーブランドとダーフィーはジョセフの妻になっていたと思われる。滑稽だ!ダーフィーはためらったが、エマはどうしても取り調べをしろ、ときかなかった。 ●3日後、クラリッサは以下の供述にサインをしている。 「私は大管長スミスまたはアグネス・スミスの行動や会話に関して、どんな時もどんな場所でも、適切でないことや徳高くないことを聞いたり、話したりしたことはありません。」 ●明らかに、エマの疑いはこの後、薄れて行った。クラリッサについての話はこれ以上、扶助協会の議事録に出てこなかったから。 神殿での奉仕 ●アグネスは神殿でよく奉仕した。ジョセフが死んだ後、ジーナや他のジョセフの妻たちと集まって慰め合った。 ●1846年1月28日、38歳の時、神殿でドン・カルロスと永遠に結び固められた。代理人はドン・カルロスのいとこ、ジョージ・アルバート・スミス。次に、アグネスはジョージ・アルバートとこの世の結婚をした。 後に子供たちもドン・カルロスに結び固められた。 ジョージはイギリスへ伝道へ行った。アグネスは彼の8番目の妻となった。 ●この後、夫ジョージはユタへ行ったが、アグネスは残った。  娘のアイナによると、モルモン教会と夫ジョージが母を見捨てたからだという。 ジョセフ・F・スミスは「そんなことはない」と言っているが、彼とアグネスの娘 アイナの主張には食い違いがある。 アグネスはお金もなかったし、病気だった。生きていくのに必死だ、と日記に書いている。 1846年6月3日、アグネスはジョージにこう書いている。 「あなたにしか、頼む人がいません。行きたいけど行きたくないのです。私は独りぼっち、とても孤独です。もし、カルロスが、ジョセフが、ハイラムがいたら、私はすぐにそちらに向かうでしょう。 教会が大好きです。兄弟たちと一緒にいたい、でも、ああ、決して埋まることのないむなしさを感じています。こちらに来てくれませんか? 私は病気がちで、娘ジョセフィンも具合が良くありません、、、、メリアン姉妹と西へ行きます、、、印刷所を70ドルで売りました、、、美しいノーブーはみじめな場所になってしまいました、、、」 4度目の結婚 ●1847年の春、ウィリアム・ピケットと結婚。ウィリアムはモルモン。でも、酒飲みは治らなかった。 ●39歳で双子の男の子を産んた。セイント・ルイスで。 ●夫ウィリアムは金を掘りにカリフォルニアへ行った。 ●一時期ユタに住み、夫ウィリアムは法律の仕事をした。が、家族を置いてユタを離れた。そしてアグネスに仕送りをしてくれたが、ブリガム・ヤングがその金を自分の懐に入れてしまった、と娘のアイナが後に語っている。  ここでまた、ジョセフ・F・スミスがアイナに反対する意見を書いている。 アグネスはユタでひとい貧困の中に住んでいた。 カリフォルニアへ ●1852年4月、アグネスと子供たちはカリフォルニアへ移住、父ウイリアムと一緒になる。17から成る幌馬車隊で旅をした。 ●ここで一行は死にそうになっている男性を見つけ、介抱した。元気になったその男は、近道を教えてくれた。彼の名はジム・ベックワース(Jim Beckwourth)、有名な探検家であった。この近道はベックワースの道と名付けられた。 彼はアグネスの子供たちを気に入り、キャンディをくれたりした。 こうしてジムに導かれて、みんなでカリフォルニアへ。娘アイナは、ジムと一緒に馬に乗ってこの道を通り、初めてここを通るパイオニアの少女となったのだった。 ●ウィリアムは金を見つけられず、アブネスたちは貧困と寒さの中に住んだ。 アグネスのたった一人の友達は、バージニアから来た、元奴隷のトンプソンさんだけだった。この人がウィリアムが不在の間、家のことを手伝ってくれた。 ●それでウィリアムは印刷会社の監督になった。家を建て、法律の仕事もした。 ユタから来たいろいろなモルモンがアグネスを訪ねた。 ロックウェル兄弟から髪の毛をもらう ●1855年、モルモンのロックウェル兄弟が立ち寄った。そのころ、アグネスは病気の為に髪の毛が抜け、つるっぱげになっていた。ロックウェルは長い髪をふさふささせていた。 なぜなら、ジョセフ・スミスが、もし、ロックウェルが髪の毛を伸ばし続ければ、敵は彼を負かすことは出来ないし、悪から守られる、と約束したから。  「スミス姉妹にあった時、彼は金やお金は持っていなかった。それで彼は自分の髪の毛を切ってかつらを作り、彼女にあげた。そしてこの時から、彼は酒を飲みたいという欲望をコントロールできなくなり、悪い言葉つかいをするようになったと言っている。」 ●ハイラム・スミスの息子、ジョセフ・F・スミスも15歳の時、訪れた。 ●ロサンゼルスでの生活は安定していることもあったが、アグネスが縫物をして生計を立てることもあった。ウィリアムがアルコール中毒だった為。 ●娘のアイナ(ジョセフィン)は、一夫多妻を毛嫌いしていた。   いとこのジョセフ・F・スミスと手紙のやりとりをしていた。   ジョセフがユタにおいでよ!と誘っても、こう答えた。 「私にちょっとでも常識が残っているうちはユタへは行かない、、、  私は一夫多妻を信じない。今も、将来も絶対に。」 ●ジョセフ・F・スミスは酒飲みでいつもどこかへ行ってしまうピケットと離婚して、ユタへ来るようにとアグネスに提案しがが、アグネスはこれを拒否した。 ●近くに住んでいたモルモンたちは、1858年に始まるユタ戦争を助けるためにユタへ行ってしまった。ピケットは土地を買ってみんなで住んだ。ピケットは2年間、弁護士をした。 ●酒飲みの夫と62歳ごろに離婚したらしい。 ジョセフ・スミスの息子たちからインタビューを受ける ●1876年、デビッド・スミスとアレキサンダー・スミス(ジョセフ・スミスの息子でRLDSのメンバー)がアグネスとアイナに会いに来た。  デビッドとアレキサンダーは、自分たちの父親がアグネスと結婚したとは全く知らなかった。 ●アグネスは、二人に、ジョセフスミスが一夫多妻をしたのは本当のことなんだからこれを否定することは出来ない、と諭した。 ●夫ウィリアムはしょっちゅうアグネスを残してどこかへ行ってしまい、彼女は生計を立てるのに苦労した。  しかし、ユタで多妻婚の妻として生きていた時だって、ドン・カルロスの妻であった時であっても、彼女は自分で働いていたし、教会は助けてくれなかった。ユタで多妻婚をしていた女性たちは違う意味で非常に苦労したのだ。 ピケットが彼女を見捨てたというのなら、多妻婚だって、結婚のネグレクトの制度だと言える。   ユタにいれば幸せだったとはいえない。 ●近年のリサーチでわかってきたのは、例えミズーリ州の暴徒たちのモルモンへの迫害がどんなに卑劣だったとしても、それに油を注いだのは、、モルモン側の過激さ、独裁主義、軍国主義的な言葉遣いだったのだ! ●1876年12月26日、68歳で死亡。死ぬ前に、彼女はこう言ったという。  「ああ、私は何てだまされやすい女だったんでしょう?」 娘のアイナはこれを、「モルモン教会にだまされた」と解釈した。 一方、いとこジョセフ・F・スミスは、夫ピケットにだまされたこと、そして後に教会を去ったことと解釈した。 私の感想 トッド・コンプトンは、暴徒たちをけしかけたのは、モルモンリーダーたちの過激さや独裁主義さだ、と言っています。私もそう思います。それで家を追い出される末端の信者たちは本当に哀れな被害者です。ブリガム・やングがアグネスの夫からの仕送りをネコババした、と娘アイナは言っています。ブリガムは自分の妻たちにも出し惜しみする程、富に執着する人間だった、と彼の腹心の部下が言ってます。エミリー・パートリッジの話にこれが出ています。 ジョセフ・F・スミスは常にアイナに反発していますが、彼はモルモンの大管長になる人ですから、教会に不利なことは言わないでしょう。アイナの主張の方が信頼できると思います。 確かに、夫ピケットが酒飲みで、アグネスは苦労したことでしょう。でも、ユタへ行って多妻婚の妻として全く愛されない人生をおくるよりはましだったのではないか、と私は思います。少なくても、自分の娘たちに多妻婚をさせることは免れましたもの!      

モルモン教会に裏切られて Betrayed By Mormon Church

モルモン教会でのエピソード、事実を調べ翻訳し、書いています。モルモン教会の教えによって苦しんでいる人を救う目的です。 I am writing about my experiences at the Mormon church. I want to help people who are suffering from Mormon teachings.

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