サラ・ローレンス(スミス・キンボール・マウント)
ジョセフ・スミスの24番目の妻
カナダで生まれ、両親が改宗したが父親が多額の財産を残して死亡する。その後、ノーブーへ引っ越してきたがその財産をジョセフ・スミスにネコババされた。ジョセフはその金でエマの名義で土地等を買ってしまう。ジョセフの家に住んでいる時に姉のマリアと共に彼の妻となる。彼の死後、サラたちにお金を工面して返してくれたのはモルモン教会から破門されたウィリアム・ローであった。後にヒーバー・キンボールと結婚するが、正式に離婚した。非モルモン男性と結婚し、カリフォルニアで生活した。ハワイに住んだこともある。
生い立ち
●1826年5月13日にカナダのオンタリオに生まれた。他に6人の兄弟がいた。父エドワードは裕福な農夫だった。
●子供の時に両親がモルモンに入った。ローレンスの納屋でで総大会が行われた。
父の死と財産をめぐってのトラブルの始まり
●1840年3月、14歳の時に父エドワードが死亡。たくさんの財産を残して。家族はノーブーに引っ越した。
ジョセフ・スミスが財産の一部を管理する後見人になった。ウィリアム^ローとハイラムが保証人となった。
●母マーガレットがモルモンの男性、ジョザイア・バターフィールドと再婚し、ジョザイアはジョセフから財産を管理する後見人の権利を自分とマーガレットに譲ってくれと言い始め、ジョセフとジョザイアの間に言い争いが起き始めた。
●このまっただ中で、マリアとサラはジョセフの家に住み始めた。エミリー・パートリッジとエライザ・パーリッジも一緒だった。
予言者との結婚
●1843年に17歳でジョセフと結婚した。
この後、ジョセフはエミリー・パートリッジとエライザ・パートリッジと2回目の結婚式をした。1回目はサラとマリアとの結婚の前に既にしていたのだが。ジョセフはこれをエマに内緒でやったので、バレるのを恐れてもう一度式を挙げたのである。
エマがこの4人をジョセフの妻として選び、結婚を認めた。この時になってやっと、ジョセフはエマに多妻婚をすることを承知させた。しかし、エマが選ぶという条件つきであった。
●1843年3月28日、ジョセフは「教会歴史」にこう書いている。
「ジョザイア・バターフィールドが私の家に来てものすごく怒って私をののしったので、彼を家から通りへと追い出してやった。」
ノーブー・エクスポジターとその破壊
●ウィリアム・ローというジョセフの第2副管長だった人物がジョセフの下を離れた。
(ウィリアム・ローの妻も又、ジョセフから結婚のプロポーズを受けましたが、彼女はこれを拒否したそうです。グラント・パーマーがそのように書いています。)
ウイリアムは、ローレンス家族がバプテスマを受けた時から彼らを知っていた。
●1844年5月23日に、ローはジョセフ・スミスを起訴した。罪状は、
「ジョセフはマリアとオープンに不倫を行っている」だった。
●これに対し、5月26日にジョセフはこう言った。
「なぜ私には妻が一人しかいないのに、7人もの妻がいると姦淫の罪で訴えられなければならないのでしょう?」
"What a thing it is for a man to be accused of committing adultery, and having seven wives, when I can only find one."
(ジョセフは本当にこのようにウソをついたのです。私も初めは信じられなかったのですが、教会歴史ボリューム6:411ページにそう書いてあります。これは教会の正式な文書です。)
●ジョセフとその取り巻きたちは、ウィリアム・ローに仕返しした。
ウィリアムを、マリア・ローレンスを中傷したとして、訴えたのである。
●6月4日、ジョセフは日記にこう書いている。
「テイラー、バビット、ハイラム、リチャード、ウッドウォースとフェルプスと共に、ローとフォスターがマリア・ローレンスを中傷したことについて相談した、、、、。」
●1844年6月7日に、ローと彼の仲間たちはノーブー・エクスポシター(Nauboo Expositor)という新聞記事を公表した。この中で、ジョセフ・スミスを一夫多妻をし
ているとして公に非難した。
●ジョセフと彼に従う者たちが新聞を印刷する印刷所を焼き払った。
この罪でジョセフは逮捕され、投獄された。
●1844年6月27日、ジョセフは殺された。
アメリカでは一夫多妻は法に違法だった。であるからして、ジョセフは公の場で、これを否定するしかなかったのである。
現実には、30人もの妻がいて、これを永遠に秘密にすることなど到底不可能だとジョセフはわかっていたにちがいない。よって、バレたときには、ウソをつくしたかないと。
半世紀後、モルモンリーダーたちも、マニフェスト(多妻婚をやめると宣言したこと)を発表した後、ジョセフと全く同じジレンマに悩まされることになる。
●この後、マリアとサラはイリノイ州クインシーで帽子屋さんで働いた。
消えてしまったローレンス家の財産
●ウィルヘルム・ウィルという人がウィリアム・ローに後でインタビューをしている。内容は次のようである。
「マリアとサラはイングリッシュ金貨で8000ドルの価値のある財産をもって来た。ジョセフがこの後見人となった。、、、ジョセフの死後、アーモン・バビットが後見人となり、エマに記録を見せてもらって調べた。すると、ジョセフがマリアとサラの宿賃と服の費用として3000ドルを差っ引いていたことがわかった。
だから、5000ドルは残っているはずである。バビットは誠実な良い人物であったが、どこを探しても残りの5000ドルを見つけることが出来なかった。」
これに対して、モルモン信者でリサーチャーのゴードン・マドソンが異議を唱えている。マドソン氏は、ローレンス家の財産は8000ドルではなく、4000ドルだったと主張し、ジョセフはお金をネコババして利益など全く得ていない、と主張する。
(このインタビューはトッド・コンプトン氏の本ではなく、ネットでブライアン・ヘールという人の記事からとりました。ヘール氏は活発なモルモン信者の歴史家です。教会も彼の本からたくさん引用しています。
ヘール氏もジョセフはネコババしていない、と主張したいが為にマドソン氏の主張を載せたものと思われます。しかし、後にバビットは7750ドルを請求していますし、ジョセフはカートランドの銀行を破たんさせた事例もありますから、やはりジョセフ・スミスがネコババしたと私は考えます。彼は金版を見つける前には水晶玉を使って宝のありかを見つける仕事をしていましたが、この時もも宝が見つからず、訴えられています。)
さて、ジョセフの土地などは全てエマの名義になっていた。よって、これをエマに返せ、と言うことは出来ない。
それで、バビットとローレンス家の人たちはウィリアム・ローとハイラム・スミスの未亡人メリーにお金を返してくれ、と迫った。ローとハイラムが保証人だったからである。
BYU図書館に保管されている法律上のドキュメントがある。
1845年9月1日、バビットとローレンス家の子供たちがウィリアム・ローとジョセフの財産管理者だったJ・W・クーリッジとハイラムの妻メリーを訴えた。
7750ドルを要求したのである。
●ローレンス家の子供たちにエマは全くお金を返さなかったので、ウィリアム・ローがこれを払った。
●ローはジョセフとエマを、ローレンス姉妹の金を盗んだ、と言ってせめているが、恐らくエマはジョセフよりは責められるべきではないだろう。
ジョセフが生きている間にローレンス家の金で土地を買ったのだろうから。それに、彼女たちと夫ジョセフの結婚もいやいやながら承諾したのだから。
ヒーバーとの結婚
●1844年10月12日にサラはヒーバー・C・キンボールと結婚した。キンボールには既に12人の妻がいた。サラはヒーバーの娘ヘレンと親友となる。
●ヘイウッドというモルモンがサラと話をし、彼女が離婚を考えていると知る。彼は彼女に、もっと良い妻になるように努めれば気持ちも変わるよ、とアドバイスしたと言っている。
●1850年に母マーガレットとジョザイアは離婚する。そして残った家族みんなでユタへ。
●1851年6月18日にヒーバーと正式に離婚した。ヒーバーの伝記作家であるスタンリー・キンボールによると、他に15人の妻がヒーバーのもとを去ったが、正式に離婚を申し立てたのはほんのわずかだったという。ヒーバーは引き止めることなくこれに応じたが、彼の娘で歴史家のヘレン・マー・ホイットニーは決してサラを許さなかった。
こうしてモルモン女性たちの歴史書の中で”暗い”伝統が始まったのである。
サラがカリフォルニアへ行ってしまったのも、ヘレンとしては、反対したくなる要因だったのかもしれない。若いときは仲が良かったにも関わらず、である。
ということで、サラの生涯はヘレン・マーのようなオーソドックスなモルモン女性たちによって、人間の暗~い描写になってしまっているのだ。
これらのオーソドックスなモルモン女性たちはサラをモンスター扱いした。本当に彼女はモンスターだったのだろうか?それとも、モルモン社会に存在するバウンダリーを超えようとした個人主義者だったのか?
サラは子供たちを操ろうとする、嫉妬深いまま母だったのだろうか?
それとも、過剰に独占力の強いまま娘メリーに誤解されただけなのだろうか?
●縫物をして暮らしを支えた。が、母が死亡し、弟たちや母の子供たちのことを一人で支えていくこととなった。
非モルモンとの再婚
●1853年にカリフォルニアの金掘りで裕福になった非モルモンのジョセフ・マウントと結婚した。しかし、彼の娘のメリーは両親の離婚を認められず、いつか復縁すると願っていたので、サラに対して嫌う気持ちがあったようだ。
●マウントはサラと一緒に住んでいた4人の子供たちの為にローレンス家を増築した。
●ヘレン・マーの記述によると、まるでサラはお金目当ての為にマウントと結婚したという風に感じてしまう。
「サラが再婚したにも関わらず、私の父は彼女に優しくして家に招いたりしてあげたわ。」とヘレン。ヘレンはサラの夫についても、非難の目で見ている。
「カリフォルニアで働いて、自分の奥さんと子供たちをここユタで他の人の助けにゆだねてほっぽっているのよ。はじめはモルモンになる、と言ってたくせに、結局福音のこれっぽっちも持ってないじゃない!金の埋まってるカリフォルニアから来て、随分と設儲けたみたいじゃない。きっとそのうち、父の言った通り、教会を拒否してサラをカリフォルニアへ連れて行ってしまうんだわ。」
●マウントの娘メリーは、サラが自分たちよりサラの子供たちを優先していると文句を書いている。まま母と娘の仲はうまくいっていなかったらしい。
●マウントとサラはカリフォルニアへ引っ越す。子供たちはユタに残った。サラの子供たちは後にみな、モルモン教会を去った。マウントは果樹園を経営し、ワインも造り、それがもとで酒飲みになってしまった。最後は家を売り払うまでになる。
●マウントの体調の為に、一緒にハワイに住んだこともあった。
●サラはたびたびユタに来たが、ヘレン・マ―は「サラはジョセフと私の父キンボールと何の関係もない、と言っている、とんでもない悪党だ、」と書いている。
とんでもないいじわるだ、と散々の悪口を書いている。
●46歳でカリフォルニアにてガンで死亡。
●私の感想
意思の強い人だったんですね、キンボールと正式に離婚したのだから。きっとまわりのみんなが反対したでしょうに。マウントさんは酒飲みになったとはいえ、多妻婚はしなかったのだから、ユタに住んでるよりは幸せだったのかもしれません。。
それにしても、ヘレン・マーは完全に洗脳されている子ですね。非常に大人げない。しかし、私も昔はバリバリのモルモンで、ヘレンと同じように人を裁いていたのですがら、恥ずかしいです。
0コメント