エライザ・パートリッジ(スミス・ライマン)

ジョセフ・スミスの21番目の妻 エライザはジョセフの家に住んでいる間に密かにジョセフの妻となった。エマがジョセフの多妻婚を受け入れると同意し、エライザと妹のエミリーと他の少女たちをジョセフの妻として選んだ時、今度はエマの前で2回目の結婚式をした。エマは、しかし、我慢が出来なくなってエライザと妹のエミリーを家から追い出した。ジョセフはこれに賛成した。  こうして現代のハガルとなったのである。 ジョセフの死後、アマサ・ライマンと結婚したが、経済的にも情緒的にも夫からネグレクトされた。ほとんど夫アマサとは一緒に住まなかった。他の妻たちと教会の召しで忙しかったからである。ほとんどの出産にも立ち会わなかった。経済的にも、情緒的にも、夫アマサはあてにならなかった。  これにも関わらず、エライザは信仰を持ち続け、公の場では多妻婚を擁護した。  夫は11人の妻をめとるが、3人は離婚。彼は違う宗教を信じ始め、モルモンを破門され、妻たちはみな、彼のもとを去る。   生い立ち ●1820年4月20日生まれ。 ●父親 エドワード・パートリッジ(帽子製造職人)、母親 リディア・クリズビー  父がバプテスマを受ける ●1830年12月11日、父エドワードはジョセフ・スミスからバプテスマを受けた、凍るようなセネカ川で。このバプテスマで全てが変わってしまった。バプテスマを受けなければ、家族はここで、心地よい場所で満足に、平和に一生暮らし続けたことだろう。 ●1831年2月4日 父エドワードは最初のモルモンの監督に召された  これは現在の教会幹部、つまり七十人以上の位を示すものだった。 死にそうな娘を残してジョセフと共に他の地へ ●監督として、エドワードは貧しいモルモンたちに施しをした。ある時、ある移民のモルモン一行が はしか を持ち込み、エライザたちにも移り、それがもとでエライザはもう少しで死ぬかもしれない程だった。 ●こんな状態の時、ジョセフ・スミスは神から啓示を受けたと言ってカンファレンスをミズーリで行うこととし、エドワードも一緒に来るようにと言った。 ●娘のエライザが死にそうなのに、また、仕事も忙しい時期に、エドワードはジョセフに従った。 ●エライザはこう書いている、「父は家族が何とか持ちこたえるようにして出かけて行きました。私はあまりにもひどい病気で父は2度と私と会えないかもしれないとわかっていましたが、主が父を呼んだので従うしかなかったのです」  「又、母は病気の子供たちや死にそうな私を一人で面倒みなければなりませんでした。」 ●1831年8月1日 父エドワードは啓示により、インディペンデンスを建てるようにとの指示を与えられた、が、同時にこう咎められている、 「もし彼(エドワード)が不信仰と心のめくらという罪を悔い改めないならば 誘惑に負けないように用心するように」とある。 ●エドワードは家族を残していくことに対して初めは異議を申し立てたのだろうか? ●母リディアは住み慣れた心地よい家を売り、友達や親族に頭がおかしくなったと思われながらも、独りで5人の娘たちを連れ、旅立った。W・W・フェルプスたちが率いる他のモルモンたちと共に、ミズーリを目指したのである。 ●母リディアは自分の所持金をあるモルモンの男性に預けるようにとアドバイスされたのだが、妹のエミリーによると、このモルモン兄弟は母の金を騙し取ったらしい。 ●船に乗って川を渡っていた時、パートリッジ家の持ち物が入った箱が盗まれ、略奪され、川に投げ捨てられた。 ●川に浮かぶ氷の塊に阻まれて、川を進めなくなったので、恐ろしく寒い中、何週間も陸に上がって狭い小屋で過ごした。こうして600マイル(1000キロ)の長旅を乗り越えてインディペンデンスへとたどり着いたのであった。 ●父エドワードは家を建てる時間がなかったので、借りた家に住んだ。子供たちは学校に通った。ある時、学校がインディアンたちに囲まれたこともあった。後に丸太小屋を建てた。 暴徒からの暴力におびえる日々 ●1832年から暴言を吐くミズーリの暴徒たちが夜家の農場のわらに火をつけたりした。 ●モルモンでない住民からの圧力に耐えかねて、モルモンたちはインディペンデンスを出ていくことに同意した。 ●11月12日、モルモンの一行はクレイ群へと移住した。 ●寒い寒い冬、どしゃぶりの雨の中、旅してたどり着いた。 ●狭い狭い家に2年間住んだ。エライザは10代になっていたので、なんでもできる仕事を見つけてやった。しかし、たくさんの人が働き口を探していたので、なかなかなかなか仕事が見つからなかった。 父が伝道へ行き、又もや住んでいた土地を追い出される ●1835年1月27日、こんな劣悪な生活の中、父エドワードは伝道へ行った。 ●1836年春、カートランド神殿が完成し、奉献式が行われた。 ●またもやクレイ群の住民とモルモンの中はうまくいかず、コールドウェル群へと移住する。 ●エライザは家族と離れて3か月、遠くの学校で教師をして家計を支えた。 ●1838年、モルモン戦争 が始まった。 ●1839年1月、恐ろしい程の寒さの中、モルモンたちは船で、又は氷の上を歩いて、ミシシッピー川を渡り、イリノイへ移住した。 妹と父親の死 ●パートリッジ家はピッツフィールドへ引っ越した。 ここへエミリーの後の夫となるブリガム・ヤングが立ち寄り、エミリーとハリエットに祝福を施した。しかし、治らなかった。 ●ハリエットは死んでしまう。父エドワードも過労と蔓延する病気に待てず、死亡する。 ●エライザ、エミリー、母リディアはウィリアム・ローの家で静養し、元気になった。 ジョセフ・スミスの家で住み始める ●エライザとエミリーは予言者ジョセフスミスの家で住み込みのメイドとして働いた。エライザは20歳、エミリー16歳のことだった。 ●母リディア・パートリッジは男やもめのウィリアム・ハンテイングトンと再婚した。彼はジーナとプレセンディアの父親である。 ●1841年、エミリーはこう書いている。「予言者ジョセフとエマが私たちを彼らの家で迎え入れようと言ってくれた。二人ともとても良くしてくれた。」 ●「パーティーや歌や馬乗りでとても楽しかった。ある日、エマが『いつもおよばればかりしているから、今度はこちらでパーティーを開いて若い人たちを招待しましょう』と言ってくれた。パーティーではゲームをして最高の時間を過ごしたわ。 予言者ジョセフとの結婚 ●エリザベス・ダーフィー(ジョセフの12番目の妻で結構年上の妻)がエミリーとエライザを家に招待してくれた。エミリーはこう書いている。 「ダーフィー姉妹は、当時霊的な妻(spiritual wives)と呼ばれていたことについて私たちに聞いてきた。彼女は、これは本当のことなのkしら、と聞いてきた。私は彼女に教えてあげれば教えることは出来たけれど、何も言わなかった。」 ●しかし、ダーフィー姉妹の家からの帰り道、エミリーは姉のエライザにジョセフから一夫多妻について教えられたこと、彼の妻の一人になってほしいと言われたことを話してしまう。エライザはこの知らせにひどく落ち込んだ。 ●1843年3月8日、エライザはジョセフと結婚した。 これは妹のエミリーがジョセフと結婚した4日後のことだった。ヒーバー・C・キンボールが式を執り行い、証人としてオルソン・ハイドが出席した。エライザはこう書いている。  「私がジョセフの家に住んでいた時、彼は私たちに日の栄の結婚を教え、彼と一緒にこの教えに従うようにと頼んできました。これは私にとって、本当に大きな試練でした。でも、彼を予言者として認めていたので、妻になることを承知しました。 そして証人たちの前でヒーバー兄弟によってジョセフと結び固められました。」 ●一夫多妻は余りにも秘密に行われたので、なんと エミリーもエライザもお互いがジョセフの妻になったことは知らなかった。 ●1843年5月1日、エライザはルーシー・ウォーカーとジョセフの結婚に証人として出席した。 ●エミリーとエライザがジョセフと結婚した2か月後、ジョセフは自分が妻たちをめとることをエマに承知させた。エマはこの時、夫ジョセフがエミリーとエライザと既に結婚していたことを知らなかった。エマは彼女が選んだ女性を妻にするなら、という条件で承諾したのである。ジョセフはこれに同意した。驚いたことに、エマはエライザとエミリーを選んだ。これはエマがどれだけこの二人に親しみを感じていたかを物語っている。 ●ところが、ジョセフと二人の姉妹は既に夫婦になっていたのだから、何ともきこちない空気がよぎっていた。 エミリーによると、「家族内の問題を避けるために、ジョセフ兄弟はもう一度結婚式を挙げることがベストだ、と言った。」 エマからのいやがらせの日々 ●1843年5月11日、今度はエマの目の前で私たちはジョセフ・スミスと2度目に結び固められた。エマはこれに完全に同意していた。 ジョセフのフリーメーソンの友達、ジェームス・アダムス判事が結婚式を執り行った。 ●この後、エマと姉妹たちとの仲は一夜にして変わる。妹エミリーはこう書いている。  「結婚式の瞬間から、、、エマは苦々しい敵となった。この後何か月か私たちはスミス家に住んでいたが、ことはどんどん悪化していった。」 ●1843年5月23日、ウィリアム・クレイトンは日記にこう書いている。 「予言者は私に、エマ姉妹と小さないざこざが起こった、と言った。」彼の記録によると、エマはジョセフが二人の姉妹たちとドアの閉まった部屋で時間を過ごすことにいら立ちを覚えたらしい。 ●エミリーは書いている。「...エマは私たちとジョセフが直ちに離婚するように要求しました。自分が何か言ったらその通りになる、とエマは思っていたのです。でも私たちはそうは思わなかった。神聖な契約を交わした、と見ていたからです。 その後、エマはサラとマリア・ローレンス姉妹たちをジョセフに捧げ、彼女たちはスミス家にジョセフの妻として住んでいました。私はこのことを知っています。しかし、私の姉と私はは追い出されました。」 「ある日、私たちはエマの部屋に呼ばれました。そこにはジョセフもいてまるで殉教者の様に見えました。エマはひどい事をたくさん言いました、ジョセフは私たちをあきらめるべきだ、さもなくば血が流れる、と。エマはこの様な形で自分の血が汚される位なら、清らかな血を流す方がましたとと思っていたのです。  この様な対談はしょっちゅうありました。」 「最後に彼女の部屋に呼ばれた時は、私は憤慨していてもうこんな事は最後にしてやる、と決意していました。何度も同じことの繰り返しで、私はエマの尻に敷かれているジョセフに対して怒りの気持ちを持ったことを恥ずかしく感じていました。  でも、今は彼はどうすることも出来なかったのだ、とわかります。 部屋に入ると、ジョセフもいてその顔に完全な絶望が現れていました。あの時の全てを思い出すことは出来ません、でも、エマは私たちが神の前で交わした結婚の契約を破棄すると約束するべきだ、と言い張りました。  ジョセフは、もし約束したら、いざこざを起こすのをやめ、私たちが他の男性たちと結婚するべきだと言い張るのをやめるか、と尋ねました。エマはそうすることを約束しました。ジョセフは私たちと握手して、これで私たちとの間は終わった、とお互いに理解したのです。  この後、私は自分の部屋に戻り、ジョセフがやってきて言いました。 「どんな気持ちだい、エミリー?」私の心はまだかたくなだったので、私は短く、こういう状況で誰もが感じる気持ちになります、と言いました。  ジョセフは、『君にもわかる通り、私はどうすることも出来ない』と言いました。  そして地面に沈み混んでしまうかの様に見えました。ジョセフが真意をもっていっていることはわかり、私の心は溶け、彼へのかたくなな気持ちは一瞬にして消え去りました。  でも彼はすぐに出て行ってしまったので私は話をする暇もありませんでした。 エマはジョセフの後を付いて来ていて、彼が出て行った後、すぐに入って来ました。 「エミリー、ジョセフは何て言ったの?」「私がどんな気持ちかと」「彼が何と言ったか ちゃんと言いなさい、こんなことはやめさせると決心してるのよ、ジョセフが何と言ったか教えなさい」「言いません、ジョセフは私を喜ばせることは何でも言うことが出来るし、あなたにいちいち報告することはしません、何度も被害が出ていて、あなたも私もこんなことはうんざりでしょう?私は自分が本気であることを彼女に知らしめるような声のトーンで言いました。」 ●エマはエミリーとエライザを家からではなく、町からも追い出そうとしたが、二人は拒んだ。ジョセフは二人の新しい行き場を探すのを手伝った。  エライザはジョセフ・クーリッジの家に、エミリーはジョセフ・スミスの別の妻、シルビア・ライオンの家に住むことになった。 ●1843年8月16日、ジョセフはウィリアム・クレイトンに、「私はエマに、こういわなければならなかった」「私の妻たちを全て彼女の為にあきらめる、と。」エマが 「ジョセフと離婚して彼のもとを去って行く」のを恐れたからである。 ●ジョセフはエミリーとエライザと握手をして、これで二人のジョセフとの結婚は終わった。二人がジョセフの家を去ってから、彼は二人にコンタクトをとらなかった。 ●エマはエライザとエミリーのジョセフとの結婚に同意したのだし、ジョセフはエマを説き伏せることは出来なかったのだろうか?エマがジョセフに有無を言わせない力を持っていたことは確かである。(恐らく離婚と一夫多妻の暴露) ●1843年10月19日より前に二人は追い出されたのは確実だろう。 ライマンとの結婚 ●ジョセフの死後、24歳でアマサ・ライマンという31歳の12使徒と結婚した。 ところが、アマサは既に、何とエライザの妹でる17歳のキャロラインと多妻婚をしていた。彼女は日記に、多妻婚に生きるのはとても辛い、秘密にしなければならないし、反抗したくなる、でも主の命令なら仕方がない、と書いている。 ●夫アマサは4番目の妻をめとる。19歳の女性。5番目の妻は29歳。6番目は18歳、7番目は16歳。 ●子供を産むが、旅の途中で死亡。 ●夫はいつも伝道でいなかったので、妹キャロラインと捨ててあった丸太小屋を修理して住み始めた。自分たちで暖炉と煙突を作った。他の男たちが屋根をつくるのを手伝ってくれた。家の中では、幌馬車のカバーで部屋を分けた。 ●妊娠した体でユタへの旅へと旅立ち、幌馬車の中で息子を産んだ。 面倒見てくれない夫 ●夫アマサはカリフォルニアへと伝道へ行かされるが、エライザはついて行かなかった。縫物をして生計を立てた。食べ物が少なく、ひもじい生活だった。 家は雨漏りがして、幌馬車で暮らしたりした。妹キャロラインは学校で教えて収入を得た。 ●次に夫が返って来た時、今度はキャロラインを含め、多くの妻を連れて行ったのに、エライザは置いて行かれた。再度妊娠したばかりだったのに。エライザは静まり返った家で寂しがったが、母親もいるから大丈夫、と日記に書いている。 ●40歳の夫が24歳の女性を妻とした。しかし、他の妻たちは金銭的に支援してもらえていなかった。これで11人の妻を持ったのだった! ●弟のエドワードがハワイに伝道に召された時、エライザは”男手がなくなってしまう”と悲しんだが、どうにもならなかった。時にはパンも食べれない程、貧乏だった。 ●アマサの4人の妻はカリフォルニアに、残りの4人はユタに住んでいた。3人は彼のもとを去った。 ●夫は息子たちとイギリスへ伝道へ行ってしまう。エライザは病気で、男手もなく、食べ物もひもじく、途方にくれる。夫不在で子供を産む。いつもそうだけど。最後の手段で、ミッショナリー基金から施しをもらうことになった。 「妹はひどい病気で、産んだ赤ちゃんの面倒を見れなかったので、私が自分の赤ン坊と彼女の赤ちゃんを面倒見た。」 ●アマサは伝道などに熱心なあまり、経済的に妻たちを援助するのを怠った。 夫アマサが破門される ●1867年、アマサは教会の教えと違う教え、イエスは人間である、という考えを広めた為に神権を取り上げられた。しかし、暇になったアマサは、妻たちの為に働き始め、家も直し始めた。教会にも行き続けた。  しかし、違う考えを持っている宗教の信者に影響され、又、妻たちをほっぽっておくようになった。 ●1870年、とうとうモルモン教会を破門された。そして、違う宗教団体の代表となった。彼がモルモン教会を去った後、妻たちも彼を去った。 ●65歳で死去  


私の感想 エライザの夫アマサ・ライマンは教会の責任にうつつを抜かし、妻たちを面倒みないろくでなしです。面倒見れないなら、結婚なんかはじめからしなければいいのに。 モルモンのリーダーたちは、こういう男たちに多妻婚を勧めたのですから、ひどい話です。こういう人、今の時代にもいます。 

モルモン教会に裏切られて Betrayed By Mormon Church

モルモン教会でのエピソード、事実を調べ翻訳し、書いています。モルモン教会の教えによって苦しんでいる人を救う目的です。 I am writing about my experiences at the Mormon church. I want to help people who are suffering from Mormon teachings.

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