エライザ・スノー・スミス・ヤング
ジョセフ・スミスの15番目の妻
初めは一夫多妻に嫌悪感を覚えるが、徐々にこれに改宗し、「女性をのろいから贖い世界を堕落から救うものだ。」と言って多妻婚を支持し、女性たちにこれを率先して勧めた。
エライザはジョセフ・スミスを熱烈に愛していた。彼が死んだと知った時、自分もすぐに後を追いたいと思った程だった。スミスの死後、ブリガムと結婚したが、一生子供を育てる機会はなかった。ジョセフの子供を身ごもったが流産したと言われている。
この説にはいくつかの記録が残っているが、どうも嫉妬にかられたエマがエライザを階段から突き落とし、流産したらしい。その後、エマから家を追い出された。
強気な性格で、教会の運営についてブリガム・ヤングと何度も意見の衝突を繰り返した。
エマの次に有名な女性といえる。詩人であり、多くの記録を残した。
エライザの弟、ロレンゾは後にLDS教会の5番目の大管長となる。
生い立ち
●1804年1月21日生まれ。7人兄弟の2番目。
両親は子供たちに男、女の区別なく最高の教育を受けさせた。
怠けるのは許されなかった。いつも聖書を読むように教育された。
●詩人。コンテストで優勝したこともある。
●みんなが結婚を勧めたが、彼女は自分の生活に満足していて結婚しなかった。
●31歳でモルモンに入った。カートランドでジョセフ・スミスの家に住んでいた。
●家族でファー・ウェストへ行く途中、食べ物が凍ってしまった。牛の乳をしぼり、暖かい乳にパンを浸して溶かして食べた。病気の人以外は冷たい床で寝た。
●ファー・ウェストではシドニー・リグドンの学校で教えて生計をたてた。縫物もした。教会の機関紙「Times and Seasons」に詩を載せた。
一夫多妻への改宗
●一夫多妻について彼女はこう書いている。
「ノーブーで私は初めて一夫多妻が教会に導入されたと悟った。この考えに私はひどい嫌悪感を感じたー今まで受けた教育のモラルとは全く反対のものだった、、、」
「それに、一夫多妻は私とは関係ない、大昔のことだから」と思っていた。
●ところが、これが今も行われ始めたと聞いておったまげる。
●こんなに一夫多妻を嫌っていたのに、後にこれが必要なことだと思う様になった。
エライザは心から一夫多妻を信じた。エライザはこう書いている。
「多妻婚を思いを巡らすことによって、この教えを愛するようになった。
貴重で、聖なる原則だと思う、人類の救いにとって必要なもので、女性をのろい から贖い、世界を堕落から救うものだ。」
●1842年6月29日、38歳でジョセフ(36歳)と結婚。ブリガムが式を執り 行い、サラ・クリーブランド(ジョセフの妻の一人)が証人だった。エライザは日記に、この結婚はこの世と永遠の結婚の両方だった、と書いている。ジョセフと肉体関係を持った。
●エライザはジョセフのことをこう言っている。
「私の愛する夫、私の心が選んだ人、私の人生の王冠」
●エマはこの結婚について知っていたか?
エライザの後のステイク会長であるアンガス・キャノンによると、
エライザはエマがこの結婚を認めたと、キャノンに言ったという。
(ここで質問なのですが、結婚式の証人はサラ・クリーブランドだったんですよね、エマは式に出席していたのでしょうか?本当に エマはエライザとジョセフの結婚を知っていたのでしょうか?私は怪しいと思いますが)
又、キャノン氏は、ジョセフとエライザの結婚は肉体関係を含んていたとも証言している。
エマに階段から突き落とされる
●1842年8月14日、ルームメートだったサラ・クリーブランドが旅だったのでエマがエライザをスミス家に迎え入れた。(これもどうも腑に落ちません。エマは以前、ファニーを家から追い出しています、ジョセフと結婚したとわかってね。なのに、ジョセフの妻であるエライザをわざわざ家に住まわせたりするでしょうか?怪しいです。エマはジョセフとエライザが結婚したと知らなかったのでは?)
●1843年2月11日、エライザは書いている。
「私は荷物を引き払ってジョナサン・ホームズの家に引き取られた。」
この間に何があったのか?以下の幾つかの記録がある。
1.エマはジョセフの多妻婚はとっくの昔に終わっていた、と解釈していた。
だからジョセフとエライザの関係を知った時、怒りが爆発したのだ。
( by ニューエルとアベリーという、エマの伝記作家たち)
2.エマはエライザを階段の上から突き落とした。そしてエライザは流産した。
(by エライザの弟ロレンゾ・スノーの息子、リロイ・スノー)
しかし、エライザが死んだとき、リロイはまだ11歳だったので、リロイは直接エライザから聞いたのではないかもしれない。この情報は疑わしい、とニューエルとベッカーは言う。しかし、全くの作り話だったとは思えない。父親から聞いた可能もある。そして父のロレンゾ・スノーはエライザの仲の良い弟だった。
3.エマはジョセフとエライザの関係を発見し、妻として夫のスミスに嫉妬し、
親友のエライザから裏切られたと感じ、エライザが予言者の子供を産む希望を
ほうきで打ち砕いた。
(by 1886年 反モルモンのWyl
4.チャールズ・リッチが目撃したのはこうである。
ドアが開いて妊娠していたエライザが出てきた。ジョセフがエライザに近づいてキスをし、リッチ兄弟の方へ階段を下りてきた。ジョセフが一番下まで下りた時、階段で何か騒ぎが起こった。リッチ兄弟とジョセフが見上げると、エライザが階段からあっという間に転かり落ちてきた。エマがエライザを押したのだ。
怒りと嫉妬で階段の一番上にエマは立っていた。顔は地獄の絵を表していた。
ジョセフはすぐにエライザを抱きかかえてエマを見上げた。
エマは涙を流しながら自分の部屋へ走り去った。
ジョセフは傷ついたエライザを彼女の部屋に連れて行った。
“エライザの腰は傷つき、それから彼女はびっこをひいて歩いている。”
“エライザは赤ん坊も失った。”
(by チャールズ・リッチ、リロイのメモに書かれていた。)
5.“エマは2階へ行ってエライザ・R・スノーの髪の毛をつかんで部屋から一階へとひきずり降ろした。
エマは初めの頃、何人かの女性をジョセフに与えると認めたのだが。
私、メリー・ボイスがノーブーにいた時にうわさが立ったのが、エマはあまりの 怒りの気持ちが強くて、家出して、一度はクィンシーに行ったけど、又、戻ってきたということだ。
(by メリー・ボイス)
6.1931年の手紙では、ブリガム・ヤングの息子、ジョセフ・ヤングはソロン・フォスターとの会話の中で、フォスター氏が大人になったジョセフ・スミス3世に話しかけている内容を記述している。フォスター氏は当時、スミス家に住んでいた。
“ジョセフよ、君の母親がエライザを家からパジャマのまま追い出した夜、君と家族のみんなが泣いて立っていたんだよ。私は君を家に連れて入ってベッドに連れて行った。君は言った、『お母さんがエライザおばさんにあんなにひどいことしないでほしいのに』と。君はエライザをおばさんと呼んだ、なぜなら君はエライザがお父さんのジョセフ・スミスの妻だと知っていたからだ。”
まとめ
これらの記述は後になって書かれたものが多い。
しかし、全く信用できないものでもない。なぜなら、エマは同じようなことを過去にも、後にも行っているからだ。
ファニー・アルガーを家から追い出しているし、
後にパートリッジ姉妹たちのことも確実に追い出している。
だから、エライザを追い出した可能性も十分あるのだ。
1843年2月11日にイライザがスミス家を出たのは確かなのだ。
●1843年8月21日、エマはジョセフの服の中にイライザからの2通の手紙を見つけた。そして 顔を赤らめて憤慨した、恐らく、イライザからジョセフへののラブ・レターだったのだろう。(by ウィリアム・クレイトン)
●1844年6月27日、夫ジョセフ・スミス死亡。エライザはジョセフ・スミスを愛していた。彼が死んだと知った時、自分もすぐに後を追いたいと思った程愛していた。
死んだジョセフがエライザの所へやって来て(恐らく霊の体で)、言った。
ージョセフのこの世での仕事は終わった、でも、エライザの仕事はまだ終わっていない、残った人たちを慰め、勇気づけるべきだー
ブリガムの妻として
●1844年10月3日、ブリガム・ヤングと結婚した。
●ライオン・ハウスに住んだ。ブリガムが正式に妻と認めた奥さんたちを住まわせるために建てた大きな家。読書や勉強にいそしんだ。ししゅうも上手だった。
●ブリガムと時々意見が対立した。
●妻というよりは、相談者という方がふさわしい、と他の人は見ていた。
●パティ・セッションズやジーナ・ハンティントンなどとよく祝福の会などを催して交流していた。異言を語ったり、異言で歌ったりした。エミリー・パートリッジとジーナ・ハンティントンがエライザの頭の上に手を置いて祝福した、とエライザは書いている。
多妻婚を信者に勧めるエライザ
●1860年11月19日、モザイヤ・ハンコックがこう書いている。
「エライザ・R・スノー姉妹が私の妻、マーガレットにこう勧めました。夫が更に大きなものを築きあげるように、もっと多くの妻をめとるようにと。そして妻のマーガレットはそのようにしました。」
エライザにとって、多妻婚はただの教えではなく、最も重要な教えだったのだ。
●ファニー・ステンハウスはこう書いている。
「エライザ姉妹は、私に、私の主人が2番目の妻をめとるべきだとアドバイスしてきました。彼女の多妻婚への考えは理にかなっておらず、説得力に欠けました。
しかし、優しい口調で話しをしてくれました。」
●ブリガムが娘の一人、フィービーにカラフルなリボンをプレゼントした時のこと。
でも、ちょっと目を離したすきに消えていた。
きっと、エライザおばさんの仕業だわ、と、フィービーはブリガムに泣きついた。
エライザは、「こんなケバケバしいものを体につけるべきだはないのでは?」と答えた。
ブリガムがエライザに、「ふさわしいかどうかは父親の私が決める、返しなさい」と言って取り戻した、という話が残っている。
教会での華々しい活躍
●若い女性や扶助協会のいろんな組織をつくり、助言した。
●1872年、68歳でヨーロッパとエルサレムを訪れた。ロンドン、ベルギー、パリ、ローマ、ベニス、アレキサンドリア、エルサレム、シリア、アテネ、ウィーンなど。
●大きな集会を開いては多妻婚の神聖さを説いた。
●扶助協会の会長となった。
●83歳で死亡。盛大な葬式が行われた。
私の感想
すみませんが、女性のくせして女性の敵、としか言いようがありません。
一夫多妻を他の女性に勧めるとは!このように頭のおかしい、盲目の女性たちや男性たちだけが残って西へ行ったのですね。でも、私も人のこと言えません。もしこの時代にここに生まれてたら、私もエライザのようにモルモン男性に良いように利用されて、多くの女性たちを不幸にしたかもしれません。
ここでは政府の目も行き届かない、クレイジーなモルモンに囲まれて、多妻婚をしたくないのにさせられた人もいたんですね。
しかし、エマがかわいそうです。
そりゃ、自分の夫が他の女性にキスしたり、抱きついたりしたら嫌ですよね?私にはとても耐えられません。本当にエマがかわいそう。
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