フローラ・アン・ウッドワース(スミス・ゴーブ)

ジョセフ・スミスの19番目の妻 16歳でジョセフと結婚。父親はジョセフと親しかった。母嫌のフィービィもジョセフと結婚した可能性がある。その証拠に、フィービィはジョセフの死後、彼に結び固められた。フローラの父親も4人の妻をめとった。ジョセフの妻でありながら若い男性と付き合ったりして、ジョセフに反抗した。彼の死後、非モルモンと結婚し、子供をもうけるが、若くして死亡する。  非モルモンと結婚したことに罪悪感を感じていた。ヘレン・マー・キンボールと仲良しだった。ユタへは行かなかった。 生い立ち ●1826年、11月14日生まれ。父ルシエン・ウッドワースと母フィービィの長女。 ●1832年頃、フローラが子供の頃、両親がモルモンに改宗。 ●1839年に他のモルモンたちとミズーリからイリノイのノーブーへ移住したと思われる ●母嫌のフィービィもジョセフの死後に彼に結び固められた。これは、ジョセフが生前にもフィービィと結婚していた可能性をうかがわせる。しかし、生前の結婚式の記録は残っていない。 ●父親はジョセフの親友で、ノーブーハウスというホテルをデザインし、建設した。  父親のルシエンは、ホテルを建てるのに雇われた者だちが賃金を上げるようにと要求した時に、これを批判した。 予言者との結婚 ●1843年の春、(3月4日かもしれない)16歳でジョセフと結婚 ウィリアム・クレイトンがそう記録している。ジョセフも自分の記録に、暗号で書いている。当時は、多妻婚についてはこれを隠す為によく、暗号を使った。もしかしたら、ジョセフの暗号もこの結婚を示すものだったかもしれない。 ●だとすると、同じ日に、エミリー・パートリッジともジョセフは結婚したことになる。エミリーがそうであったと同じように、フローラもジョセフと肉体関係を持ったと思われる。 金の時計をめぐってのジョセフとエマの大げんか ●1843年8月22日 ウィリアム・クレイトンの日記にはこう書いてある  ー予言者ジョセフは私に、昨日はエマに手を焼いたと言った、、、、、エマはフローラの持っている金の時計について問いただす覚悟でいた。  ジョセフはエマの悪意のある話し方を叱責した。  家に帰る途中に、エマはひどいことを言いだした、それが家に着いても続いたので、ジョセフは 厳しい処置をとることになった。(harsh measures ) とうとう最後にはエマをだまらせることに成功した。 この歴史本を編集したトッド・コンプトン氏はこう感想を述べている。 「モルモンの多妻婚において、多くの最初の妻たちがこれに同意したのにも関わらず、エマは常にこの“原則”に執念深く反対した。皮肉なものである。  エマはパートリッジ家とローレンス家の娘たちをジョセフに嫁がせることを少しの間だけ許した時でさえ、ジョセフが彼女たちと時間を過ごすのを邪魔しようと、戦ったのである。彼女の怒りは、恐らく夫ジョセフが自分の知らないところで結婚したとわかった時に頂点に達したのだろう。明らかに、ジョセフはしょっちゅうこれを行った。  だから、エマは、ジョセフが誰でも若い女性に特別扱いしていると、それをすぐに察知したのだ。」 ●フローラはジョセフのお気に入りの妻だった。ウィイリアム・クレイトンの日記によく、ジョセフとフローラが一緒にいると書かれtいる。 デートも出来ないフローラ ●ある日、オレンジ・ワイトという19歳のモルモン男性がフローラと歩いていたら、ジョセフ・スミスが馬車で通りかかり、二人を乗せてフローラの実家へ連れてった。そこにはフローラの母がいて、オレンジに、フローラはジョセフの妻だということを説明した。  オレンジ・ワイトはこう書き残している。 「予言者はドアを開けました。私たちが中に入って彼と反対側に座ったら、彼は馬車を運転している人に、進め、と言いました。私たちはいろんな所へ行きました。 それから彼はウッドワース家に行ってそこで私たちを降ろしました。  家に入ってからウッドワース姉妹が私を他の部屋に連れて行き、フローラはジョセフの妻の一人なのよ、と言いました。僕はエライザ・R・スノーとパーリッジ家の娘さんたちがジョセフの妻だと聞いていましたが、フローラまでそうだとは知らなかった。でも、ウッドワース姉妹が全て話してくれました、、、、、それから僕はフローラにも少しお説教をして、それから妻に出来る女性を求めて他を当たりました。」  ジョセフは自分で言わずに母親に説明させた。オレンジはフローラに好意を寄せていた。オレンジは明らかに、フローラに、結婚しているのに僕にそれを言わないでその気にさせるのはよくない、と叱った。  しかし、フローラは他の男性といることで、ジョセフとの結婚に反抗しようとしたのかもしれない。  ヘレン・マー・キンボールも、若くしてジョセフと結婚させられたことに不満を抱いていた。自由がなくなることへの不満を。 ●父親のルシエンは、Council of Fifty(秘密の神の王国の国家)の会員となった。 2度目の結婚 ●ジョセフ・スミスの死後、カルロス・ゴーブという、非モルモンとかけおちして結婚し、子供が2,3人出来た。  しかし、非教会員と結婚したことを悪いことだと感じていた。 ●父親はノーブーハウスの建設から外された。 ●母フィービィは神殿の奉仕で、もっと位の高い人たちに意見を言って問題になったこともあったが、奉仕をつづけた。 母親もジョセフと結び固められた ●1846年1月17日、母親のフィービィもジョセフが死んだ後にジョセフと結び固められた。 フィービィはジョセフが生きている間にジョセフの妻になったかどうかわからない。恐らく違うだろう。 ●しかし、これで夫ルシエンは永遠の結婚相手がいなくなってしまった。ので、2日後の19日に、3人の妻をめとった。  3日後にはもうひとりの妻をめとった。レイチェル・キングスリーである。 ●移住するときにひどい病気にかかるが、ヘレン・マーがよく介抱してくれた。 ヘレンによると、フローラは異邦人と結婚したから病気になったと思ったらしい。 大きな罪悪感を抱いていた。 ●フローラは若くして子供たちを残して死亡したらしいが、記録が残っていない。 ●両親はその後、ユタへ行き、カリフォルニアに住んでいた。ここはモルモンの開拓場所だったが、後にモルモンたちはここを去った。もしかしたら父親が教会に反対してここに残ったのかもしれない。ルシエンの死後、妻フィービィはユタへ戻った。


私の感想 若くして何人も妻のいるおじさんと結婚させられてかわいそうです。 デートも許されない。 病気になったからといって、それが非モルモンと結婚したことへの罰だと思っていたなんて、かわいそうです。でも、友達のヘレン・マーや両親たちが非モルモンとの結婚をそのような目で見ていたのだから、洗脳されてしまったのでしょう。  でも、少なくても、次の妻、エミリーのように最初の夫ジョセフから家を追い出され、次の夫ブリガム・ヤングから愛されず避けられて、貧乏で寂しい人生を送るよりは幸せだったのではないでしょうか?  金の時計をめぐってエマがジョセフに抗議したとありますが、これに対してジョセフはharsh measuresを使ったといいます。普通、これは暴力をふるうということです。ジョセフはエマに手をあげる夫だったかもしれないと言えます。不倫はする、銀行は破たんする、暴力をふるう、どうしてこのようなひどいジョセフ・スミスが神の予言者と言えるのか、私にはどうしても理解できません。 

モルモン教会に裏切られて Betrayed By Mormon Church

モルモン教会でのエピソード、事実を調べ翻訳し、書いています。モルモン教会の教えによって苦しんでいる人を救う目的です。 I am writing about my experiences at the Mormon church. I want to help people who are suffering from Mormon teachings.

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