マリンダ・ジョンソン (ハイド・スミス)
初めはモルモン教会をバカにしていたが、15歳で初めてジョセフ・スミスに会ってから一度も彼を疑わなかった。2人の兄と夫は12使徒となる。兄たちはジョセフに反抗し、分裂派グループのリーダーとなり、大きな影響力を持った。そのうち一人はモルモン教会に後に戻る。夫オルソンは伝道ばかりに行っていて、ほとんど家にいなかった。マリンダは自分で働いて生計を立て、独りで子育てをしなければならなかった。夫がエルサレムへ伝道中にジョセフと結婚する。後に夫は8人の妻を持ち、30人以上の子供をもうける。しかし、そのうちほとんどマリンダの所に来なくなり、彼女はオルソンと離婚する。ルイーザ・ビーマンの親友。
生い立ち
●1815年6月28日生まれ。15人兄弟の7番目。
●父ジョン・ジョンソンは真面目で立派な農夫 母はアリス(エルサ)
●マリンだは初め、モルモン教はバカらしい、と思っていたが、15歳の時に親に強制されてジョセフ・スミスと会い、その時、じっと見つめられて、まるで自分の心を読まれているように感じた。ジョセフが微笑みかけると、マリンダの怒りの気持ちはたちまち溶け、ジョセフを予言者だと知り、その後一度もこれを疑わなかった。
●マリンダの家族はモルモン書を読んだ。そのころ、母エルサは慢性リューマチで2年間苦しんでいた。エルサは腕を頭より上に上げることが出来なかった。しかし、 兄ルークは、
「ジョセフが母の頭の上に手を置くと、直ちに病気が治った。」と書いている。
この奇跡がバプテスマを受けるきっかけともなった。
●1831年4月31日、15歳でバプテスマを受けた。
ジョセフ・スミス、去勢されそうになる
●1832年、3月24日、ジョセフとエマがジョンソン家に7か月滞在していた時40~50人の暴徒が夜中に押し入った。
マリンダは次にように書いている。
「黒人に変装した暴徒たちが病気の子供を介抱していたジョセフを家から引きずり出しました。又、シドニー・リグドンの家にも行き、2人を果樹園へ連れて行き、たたいてタールを塗って羽をつけ半殺しにして去っって行きました。私の父は助けようとしましたが、なぐられて気を失ってしまいました。」
●マリンダの兄、ルーク・ジョンソンによると、スミスは板の上に寝かされて、
「やつらは彼の服を引きちぎり、去勢しようとした。(emasculate)
そしてデニソン医師(Dr.Dennison)が去勢手術をするために来ていたが、ジョセフの哀れな姿を見てかわいそうに思い、手術を拒んだ」
ルークがこう書いているので、暴徒たちが、ジョセフが不適切な性的行為をしていたと思っていたのは確かだ。
この後、マリンダたちはカートランドへ引っ越した。
オルソンとの結婚と夫不在の日々の始まり
●1834年9月4日、19歳でオルソン・ハイド(29歳)と結婚。シドニー・リグドンが式を執り行った。
オルソンは、忠実なモルモンで、熱心な宣教師であり、気が強く、力強いスピーカーだった。マリンダの兄、ルークやライマンと共にジョセフ・スミスに従って1834年シオンのキャンプの行進に加わった。に12使徒になった。
この後15年間、オルソンはイギリスへ1年、エルサレムへ2年など、伝道ばかりでほとんど家にいなかった。
●夫オルソンは、シドニー・リグドンの学校に通ったが、それについて名声を傷つけるようなコメントをした為に、ディスフェローシップされた。オルソンは後に自分が間違っていた、と謝ってディスフェローシップを解かれた。
●マリンダの初めの子供ネーサンが出産時に死亡する。
●2番目の子供が生まれたが、夫オルソンがイギリスへ伝道に行ってしまう。
マリンダは日記に
「、、、私と産後3か月の赤ちゃんを残して行ってしまった」と書いている。
兄たちがモルモン教会から破門される
●1838年に兄のルークとライマンがモルモン教会から破門される。ジョセフ・スミスを批判したからである。
2人は、カートランドのモルモン分裂派リーダーとして大きな影響力を持った。
●教会からの分裂者が増え、経済的にも困難になったので、マリンダとオルソンがヒーバーたちとミズーリのファー・ウェストへ向かった。そんなとき、教会に不満を抱いていた兄のライマンがみんなの為にホテルで食事をねぎらってくれた。
オルソン、ジョセフに反抗する
●1838年、オルソンはトーマス・マーシュが準備した供述書にサインしている。
「モルモンたちはギャラティン(テネシーの街)を略奪した。
ジョセフ・スミスはこの州を奪い、アメリカを、最終的には世界を手に入れる計画だ、と聖徒たちに公言している」
「もしジョセフがこの時代の二人目のモハメッドになろうというのなら、世界をロッキー山脈から大西洋まで、流血で満たすことになる。」
また、非モルモンに対してのモルモンの襲撃について語っており、戦うことを拒否したモルモンたちに死をもたらすようにとジョセフが言い張ったのだ、と断言した。
これがもとでジョセフはリバティーの牢獄に入れられた。
ジョセフは牢獄からこう手紙を書いている。
-我々は完全に腐敗した心を持ったマーシュとハイドを忘れたいー
●しかし、オルソンはジョセフと他のモルモンたちに忠誠心が残っており、悩む。
そしてとうとう、示現を見る。もし教会に戻らないなら、すべて失くして、カインののろいが自分にふりかかる、と。
1839年6月、教会に帰ってきて再度バプテスマを受けた。
夫が3年間、エルサレムへ伝道へ行っている間にジョセフと結婚
●オルソンは3年間、エルサレムへ伝道へ行く。
1841年10月24日、オルソンはオリブ山に立ち、末日にユダの集合場所としてパレスチナを奉献した。。
マリンダは小さい子供を二人抱え、窓に紙を張った家で貧じく生きた。マリンダは病気で、でもお金がなくて、2人の子供を育てながらご飯もなくて、昼は先生をして、夜は縫物をして生計を立てた。
●1842年4月、26歳でジョセフ・スミス(36歳)と結婚。
夫オルソンがエルサレムへ伝道中に。オルソンはこの結婚しついて知っていたか、知らなかったかは不明。
この本の著者、トッド・コンプトンは 「オルソンは知らなかった、という方が正しい解釈だろう」と意見を述べている。
ーーもし、オルソンから許可を得てから結婚したなら、オルソンが帰国するまで結婚式を待っていたはずだからーーである。
オルソンが伝道から帰って来てからも、マリンダとオルソンは一緒に住み続け、1858年まで10人もの子供を産んた。
ジョセフがナンシー・リグドンにプロポーズするのを手伝う
●マリンダは、19歳のナンシー・リグドン(シドニー・リグドンの娘)にジョセフがプロポーズするのを手伝った。
ジョン・C・ベネットは反モルモンで、いつも真実を述べていたかどうかはわからない。しかし、彼は元モルモンで、多妻婚のど真ん中にいた人物であるのだから、彼の言っていることが全てウソだ、とは言い切れない。
ベネット氏によると、ー4月9日、ジョセフはマリンダに、ジョセフとナンシーが会えるようにお膳立てするように頼んだ。マリンダの家に来て個室に通されたナンシーは、ジョセフからプロポーズされた。憤慨したナンシーは、すぐにカギをかけた部屋から自分を出すように要求した。
ジョセフはマリンダに、ナンシーによく説明するように頼んだ、マリンダはーはじめは変なことに思えるだろうが、もっとよく考えれば受け入れることが出来るようになるわーと言った。
ナンシーは、「そんなこと、絶対にないわ!」と言って去って行った。
ナンシーはこれを父親に言い、シドニー・リグドンとジョセフの間には溝が出来た。
オリバー・カウドリがジョセフとファニー・アルガーのことでジョセフを信頼出来なくなったと同じ様に。
●オルソンの不在中に、ジョセフはたびたび、マリンダを訪れた。
●1842年12月7日、オルソンが3年に渡るエルサレムの伝道から帰って来た。
●1843年2月か3月までにジョセフはオルソンに、多妻婚の法について教えたと思われる。アン・エライザ・ウェブ・ヤングの記述によると、
「オルソンはこれを聞いてものすごく怒り、もし、マリンダが自分のいない間にジョセフと結婚したというのなら、僕は彼女とは二度と一緒に住まない、と誓った。
しかし、実際はマリンダとその後も一緒に住み続けた」
ということだ。彼女は後にモルモンの暴露本を書く人となるが、だからと言って彼女の言っていることが全てウソだとは言い切れない。
オルソンが多妻婚を始める
そしてオルソンは23歳のマーサ・ブロウェット(2番目の妻)と結婚。多妻婚を始めた。結婚式にはマリンダも出席。
27歳のメリー・アン・プライス(3番目の妻)とも結婚した。7月20日に。メリーアンは初め拒絶したが。3人の妻たちはオルソンと一緒に住んだ。
ヘンリー・ジェイコブスとウィンソー・ライオンの時と同じように、今回もジョセフは妻を永遠の伴侶として失った男性たちに、別の女性と結婚するようにと勧めたと思われる。
●この後もよくオルソンは伝道へ行った。
●1846年1月11日、神殿でオルソンとマリンダは永遠の結び固めをした。
マーサとメリーアンとも結び固めをした。
これは例外である。本当はマリンダと子供たちはジョセフのものになるのだから ジョセフに結び固められなくてはいけない。
これをしたのは、アグネス・クールバースとデルセナ・ジョンソンだけ。
次の日、オルソンの二人の娘はオルソンとマリンダに結び固められた。ジョセフ・スミスではなく。
恐らく、オルソンは二人の娘たちを永遠にジョセフに差し出すのを嫌がり、ジョセフではなく、自分を選ぶようにとマリンダを説得したのだろう。
ところが、後にマリンダはオルソンとの永遠の関係を断ち切り、ジョセフ・スミスと永遠の結び固めをした。次々と若い女性たちを妻にめとり、自分の所へはほとんど来なくなったオルソンに愛想をつかした、と思われる。
●オルソンはイギリスへジョン・テイラーと伝道へ。
またしても、マリンダはテント暮らしを余儀なくされた。ルイーザ・ビーマンと住んで、縫物をして生計を立てたと、パティ・セッションズが日記に書いている。
ルイーザ・ビーマン、サラ・キンボール、メリーアン・ハイド(オルソンの3番目の妻)から慕われていた。優しくて暖かい人柄だったと思われる。
●オルソンは50歳のシャーロット・クィンラン(4番目の妻)と結婚。
しかし、1番目の妻、マーサは彼のもとを去った。自分で仕立て屋さんを開き、洋服を作る仕事を始めた。
1852年にオルソンはソルト・レークで商売を始め、妻たちの為に家を建てた。
マリンダは8番目の子供を産んだ。
●オルソンはブリガム・ヤングとたびたび意見の衝突をしたらしい。その為、オルソンは何度も植民地化のための伝道へ行かされたと思われる。
●1855年、マリンダには孫が生まれる。おばんちゃんになった!
パティ・セッションズの日記には、マリンダとバイオレット・キンボールとシルビア・セッションズなどが集まってパーティーをしたと書かれている。
●1857年3月12日、オルソンは52歳の時、16歳のアン・エライザ・ベッカー(5番目の妻)と結婚した。アンとの間に6人の子供をもうける。
●同じ年に16歳のヘレン・ウィンターズ(6番目の妻)と結婚した。
しかし、ヘレンは2年後にオルソンのもとを去った。
●1857年7月31日、マリンダはジョセフ・スミスと永遠の結婚をした。
マリンダは、夫オルソンが若い女性たちを妻にするのを見て、彼をやめてジョセフを選んだと思われる。
●しかし、1858年4月23日、マリンダはオルソンの10番目の子供を産んだ。
これで最後。ZINAと名付けた。恐らく、友達のジーナ・ハンティントンの名前にちなんでつけたと考えられる。
●1863年の夏、58歳のオルソンは21歳のジュリア・レインハート(7番目)と結婚。5人子供をもうけた。
●1864年の夏、59歳で22歳のエリザベス・ガリアー(8番目)と結婚。5人子供をもうけた。
●1865年10月10日、60歳で18歳のソフィア・ライオン(9番目)と結婚。4人子供をもうけた。
●アン・イライザ・ウェブ・ヤングはこう書いている。
「大きなパーティーがあった。そこにマリンダ姉妹が友達と来ていた。
12使徒のオルソン氏は若い妻たちを連れて来ていた。席が近かったので、オルソンとマリンダは握手し、挨拶を交わしてそれで終わりだった。
このように、歳とった妻が友達とパーティーに行き、夫が一人か二人の若い妻たちと来ているのに出くわすのはよくあること。
年配の妻たちはときどき、自分の夫と年に一度か2度しか会わないこともある。でも、1キロも離れていないところに住んでいるのです。」
アンはモルモンに対して友好的ではない。だが、彼女はノーブー時代から多妻婚の中に生き、ユタではその一員で、すべてを見てきた。彼女の記述は無視出来ない。
●ワードの扶助協会会長として長い事奉仕した。いつも、貧しい人たちの為に食事を配ったりして優しかった。
●デゼレト病院の役員だった。
オルソンとの離婚
●1870年、マリンダ55歳の時、オルソンと離婚した。
ーオルソンはマリンダを精一杯サポートしようとしたが、若い妻たちと時間を過ごすことが多く、マリンダは家のことを息子たちに頼るしかなかった。
又、ジョセフ・スミスと永遠の結婚をしたのだから、オルソンとこの世でつながっている意味がない、とマリンダが感じたのかもしれない。ー
と、MYRTLE HYDE (伝記著者)は言っている。
●神殿で死者の為の身代わりの儀式を熱心に行った。
●1886年3月24日、70歳で死亡。
マリンダの夫、オルソンの多妻婚の歴史
①1843年2月か3月に23歳のマーサ・ブロウェットと結婚。が、後に妻は出て行く。
②7月20日、27歳のメリー・アン・プライスとも結婚した。
③50歳のシャーロット・クィンランと結婚。
④52歳の時、16歳のアン・エライザ・ベッカーと結婚した。
アンとの間に6人の子供をもうける。
⑤53歳で、16歳のヘレンズと結婚した。
しかし、ヘレンは2年後にオルソンのもとを去った。
⑥58歳では21歳のジュリアと結婚。5人子供をもうけた。
⑦59歳で、22歳のエリザベスと結婚。5人子供をもうけた。
⑧60歳で、18歳のソフィアと結婚。4人子供をもうけた。
マリンダを入れて9人の妻がいた。30人位の子供をもうけた。
マリンダ、マーサ、ヘレンに去って行かれた。
私の感想
ジョセフ・スミスが信者たちを伝道に出している間にその妻たちを自分のものにしたと昔聞いたことがあります。いっくらなんでも、それは作り話だろう、と思っていましたが、本当だと知って衝撃を受けました。モルモン信者に聞くと、そんなのは反モルモンのでっちあげに決まってる、と言われました。
しかし、モルモンの歴史の事実こそが、モルモンが【反モルモン】とレッテルを貼ってしまいたくなるほど、ひどい事実だったのです!!!
ヘンリー・ジェイコブスも、イギリスへ伝道中に、妻ジーナをブリガムにとられてしまいました。昔の悪い殿様と一緒ですよ!
妻をとられた代わりに、オルソンには違う妻たちをもらうようにとジョセフは持ち掛けたのですね。
めちゃくちゃですね。オルソンも、伝道ばっかり行ってて、ほとんど家にいないのに50歳や60歳になって16歳とか18歳のティーネージャーを妻にするとは、異常だと思います。
私の娘は21歳ですが、この子が私の主人よりも歳とった60のおじいさんと結婚する、ということです!これって、本当に恋に落ちて結婚したんでしょうか?
ロレンゾ・スノーも、70歳くらいで10代の少女を妻にむかえた、と聞いたことがありましたが、これもウソではないかもしれないです。
これが日常茶飯事に行われていた、というのは狂っている、としか言いようがありません。
マリンダが離婚するのもわかります。かわいそうに。
だから、神殿の奉仕や扶助協会の活動に力を入れるしかなかったのだろうと思います。本当にかわいそうです。
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